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寸劇

1/寸劇          

 卓子の上、半円状の菓子がしんと鎮座している。肌理の細かなクリームに銀の粒が散りばめられ、枝葉型の焼き菓子が外周を取り囲む。テーブルクロスと共に白で統一された、美しい菓子だ。
 これを前にした女は、椅子に浅く腰掛けて静止していた。彼女の側で湯気が立ち上る。傾けられたティーポット、飲み口の薄く華奢なカップに琥珀が注がれ、満ちゆく水面が光のあやを遊ばせる。
 ささやかなる茶器の擦過音、娘の手前にカップとソーサーを置くのは男の手だ。彼は執事ではない。銀の装飾具が煌めく、膝丈の黒いジャケットを着て、むしろ賓客としての正装を整えていた。
 暖炉傍の円卓を基点として茶の芳香が室内を漂う。潔癖に白い壁と天井、豪奢な家具に囲まれ、起毛の絨毯の上で呼吸をするのはふたりきり。
 男の優雅な挙措と彫像のように時を止めた女との取り合わせは、一室を舞台とし、劇の一幕を演じているかのようである。凍ったままでいる女の対面に男が着席した。

「君の言語学者としての功績は、私も聞き及んでいる」

 

 彼の名をカリヴァルド・クディッチという。青年として長じきった齢であり、面立ちは彫りが深く精悍。前髪は頬に触れる長さ。毛先は暖炉の光を通し、暗色から夜明けに透ける。彼は眼差しの厳しさを微笑で補い、生粋の貴族としての風格を纏う。
 本来ならば、軽食の席を整えるべきは給仕を担う家僕達の仕事であるが、彼等はカリヴァルドの指示により室外にて待機していた。

 

「失礼ながら」

 

 娘が口を開く。

 

「私ではクディッチ公爵の無聊をお慰め出来ません。何卒ご寛恕頂き、別室に居られる伯爵か公爵をお呼び致します」
 
 女の肩幅は狭く小柄だが、理知的な面持ち、沈着さからして子供でないのは明らか。純白のドレスを纏い、首元をレースが覆っている。美しく伸びた背筋を飾るのは銀髪。水が如くの艶が垂直に流れ落ち、時ならぬ月光を冴え冴えと背負う。

 

「ノウェルズ・クディッチ紫書官。私達は種族存亡の危機を前にし、責任を負う立場にある。共に足並みを揃えねばならない」
「異存ありません、公爵。しかし、この後に合議を控えた今、我々が個別に親睦を深める理由が御座いますか」

 

 菓子を挟んで剣呑な雰囲気を保つ彼等は、実の兄妹である。親代わりであったカリヴァルドの手元をノウェルズが離れて十五年、当時は自立せんとする妹の意思を汲み取り穏便な別れを済ませはしたが、実質上の絶縁状態にあった。
 この度リーベン公爵により招集され、同公爵邸で再会。後に控えた合議の前に少し話そうとカリヴァルドが誘いかけ、卓に着いたのである。

 

「私とて地位で君を拘束しているわけではない、茶を飲み終えたなら退室なさい」

 

 退室の単語が効いたか、ノウェルズがカップの持ち手に指を添える。ソーサーを離れた瞬間を計らい、カリヴァルドはテーブルクロスの影で彼女の靴を軽く蹴とばした。振動を受けて茶が波立ったものの、ノウェルズは上手く均衡を保ち、中身を零さずに堪えきる。

 

「……お戯れを」
「失礼、お気になさらず」

 

 兄は紫水晶、妹は紅玉の嵌った瞳に眼光も鋭く互いを写し、牽制し合う。

 

「グレンツェ語。旧き時代の忘れ去られた言語。話者はなく、遺された史料も五枚の石版のみ。解析されれば我々の起源すら紐解くという。起源に過去と……クディッチを離れ、系譜を無視する君にしては面白い学問を選んだね」
「言語学が前提とするのは時代であり社会であり、敢えて私と貴方という狭い単位に紐付けた理由は尋ねずにおきましょう」

 

 一見して変調はないかに見える女の、いわば雰囲気から敵意の高まりを悟ったカリヴァルドは、妹に対する悪癖を取り戻して調子づく。
  
「グレンツェ語に特化した同研究所が開設されて約十年。その点からすると、君の研究はまだ新しい。私が言うと皮肉に聞こえたかな。そう怒らないで……」

 

 無邪気ともいえる横柄さが態度に現れ、作り物ではない微笑に彼の美貌が輝く。

 

「目をかけて頂き恐縮ではありますが、クディッチ公爵に申し上げることは何もありません。リーベン公爵の招集を受けて赴いた次第、職務を果たすのみ」

 

 図書館とは各地に点在し、種々の公的手続きを担う複合施設だ。職員は全てが司書として統括されるが、彼等の仕事は蔵書を離れて多岐に渡り、一部は歴史家としての側面を担う。この性格が特に強い者を司書の一等、紫書官と呼ぶ。紫書官は首都に置かれた中央図書館にのみ在籍し、ノウェルズの片腕を縛る腕章は、その証。 

「寂しいことを言ってくれるな、ノウェルズ。ともあれ、十五年も手紙の一通さえ寄越さず、元気そうで何よりだ」

 

 カリヴァルドは満足していた。妹が舌戦応じる度、久しく血の通っていなかった精神に安堵と懐かしさが流れ込んでいく。

 

「このお茶を飲み終えるまでならば、思い出話にもお応えします」

 

 表面的な対立と緊張を保ちながらも、兄妹の発声は詩を誦する様に美しい。この響きこそは、彼らが幼年期を共にしたことの名残。カリヴァルドが貴族社会の教養とされる全てをノウェルズに与え、教育したのだ。唇の開閉度から、茶器を傾ける所作に伴う、指先の一本に至るまで。

 

「再会の日が口喧嘩で終わるのは私も悔しい。食べろとは言わない。せめて、スムスの紐を解いてくれないか」

 

 カリヴァルドが小箱を取り出す。収められていたのは、鹿の形をした砂糖菓子。職人技の光る立体的な作りで、赤い紐が角に結ばれている。
 兄妹の間に置かれた菓子をスムスといい、贈り主が白鹿を立て、受け取り手は紐を解く。紐が解けても鹿が立ったままであれば充実した一年を過ごせる、そうした願掛けが宿っていた。カリヴァルドは専用のはさみで箱から鹿を摘みだすと、雪山の頂点に優しく立たせる。

 

「どうぞ」

 

 兄の促しを受けたノウェルズが、仄かな焦りと緊張に強張る。食べなくてもいい、というカリヴァルドの譲歩を受け、尚も固辞すれば理由を勘ぐられると踏んだのか、彼女はゆっくりと腕をあげる。しかし手が震えてしまい、余計な力が加わって角が折れた。
 甘い雪原に鹿が倒れる。角の欠片と共に落ちた赤色の紐が嫌に映え、覇者から一転、狩られた獲物の様に呆気ない。
 小さな円卓である。ノウェルズが肘を引くより早く、カリヴァルドは妹の手を捉えて指先を握りこむ。

 

「冷えたままだ」

 

 熱い茶器に触れ、暖炉前に腰掛けていながら、ノウェルズの末端は氷の温度で小さく痙攣していた。疑念が確信に固まる。妹は病身なのだ。

 

「この後で体調が悪化したら、隠さずに申し出るように。……いいね?」
「はい」

 

 痩せ我慢を看破されて悔しかったのだろう。頷くノウェルズの顔色は、病んだ色に儚く透けていた。僅かな仕草で心理状態を汲めるほど理解していながら、再会の喜びを示しあえない。唯一無二の家族でありながら、見知らぬ相手の様に振る舞っている。

 

「それでいい」

 

 兄妹といえども、彼我における価値観の相違に橋を渡すことは難しい。カリヴァルドは、その差異を認めているつもりだ。彼が触れても熱が伝わらない、この手の凍る在り方を。
 ふたりを隔てるのは卓子ひとつ、腕を伸ばしあってようやく届く理性の距離。だから、カリヴァルドは手を放す。
 知見を広めた妹に、過去の面影を探すのは無為なこと。彼女の成長を認め、自由にしてやることが兄としての餞であり、頼られればいつでも手を差し伸べんと心に秘めるのが家族だ。それが正しいと、まだ願う心がある。

 

「妹の顔を見ると、どうしても可愛い。そう思う私の感情に、少しばかり付き合ってもらっただけだよ」

 

 妹の手を離す善良な兄の姿こそが道化か、彼の中で定かでは無い。いずれにせよ、茶会は終わりだ。

 

「行きなさい」
 
 十五年前にも妹に向けた台詞と重なって、寂しい感慨にカリヴァルドは苦笑する。彼の口元に覗くのは、特別に発達した犬歯。
 真珠色の牙を備えた生き物……吸血種とは、グライブなる地域に住まう種族を指す。牙で獲物を穿ち、血を勝ち得る。そうした野蛮な行為が行われたのは遥かな昔のこと。彼等は高い壁を築いて居住地グライブを囲み、独自の文化を築いた。
 ヒト種と共に調印した友好条約の下、彼等の厚意により血液供給の援助を受け続けて暮らし、現在に至る。
 共生関係を成立させたはずの両種族における均衡を侵すか否かが、この後に控えた議題だ。カリヴァルドもまた公爵の一角、大局を決するにあたり背負うべき責務がある。

 

「ありがとうございます、御兄様」

 

 懐かしい呼び方にカリヴァルドが瞠目した一瞬を突き、宙で下がりきらずにいた兄の手をノウェルズが握る。握手の形で力が籠り、離れた。
 意思を通じ合わせたかに思われたのも束の間。椅子を離れたノウェルズが身を折り、口元を抑える。乾いた咳をハンカチーフで殺し、失礼と詫びる横顔に銀髪が流れて表情を隠す。
 吸血種は血臭を嗅ぎわける故、喀血は確かだろう。指摘は酷と考え、知らぬ振りを通すことにした兄の傍を銀髪の軌跡を引いて妹が過ぎた。扉の開閉音、規則正しい靴音が遠ざかる。
 卓子に鎮座するスムスは雪の降る、寒々しきグライブを象徴する菓子である。暖炉の温もりはノウェルズには届かなかったが、白さを保つスムスを少しずつ蝕み、いずれは形を崩してしまうだろう。
   妹も、同胞も、共に死期が近い。決断を下すべき刻限が迫っている。

2/合議          

 柱時計が午後零時を指し、鐘の音が地を這う低さで鳴り響く。
 革張りの肘掛け椅子、職人の手になる家具と調度品の数々。壁の柱は深みのある木肌に蜜が如くの艶を流し、長椅子や卓子の脚でさえ経年の光沢を走らせる。
 全ては輝くシャンデリアの下。計算尽くしの設計、配置の織り成す美しさによって贅を凝らされた談話室は、入口から奥までを見通せる長方形型の造りをしている。塵ひとつなく整えられた絨毯に乗るのは、暖炉から漏れる光と、これを囲む五名の影。
 火が爆ぜた。
 暖炉の傍、熱源から近い順にリーベン、キルベンス、少し離れた位置にヴィルベリーツァ、クディッチと国政を司る為政者が並ぶ。向き合う四脚の椅子が形成する正方形、これを外れてノウェルズが待機していた。
  
「一四日前から出現したグライブの異常について、クディッチ紫書官による解説を経て、種族性管理の観点から今後の対策と方針を決定すべく合議を開始致します」
 
 白髪を結わえた気品ある老女が口火を切る。彼女はこの屋敷の主、グライブにおける実質上の最高権威、サラ・リーベン公爵であった。
  
「クディッチ紫書官、解説を」
  
 リーベンが、老いのために痩せた片手を上げる。指示を受けたノウェルズは窓辺へ向かい、家僕が厚いカーテンが引き、室内に外光を招き入れた。
  
「皆様、ご覧下さい」
  
 窓を隔てた先に広がるのは、白で統一されたグライブの街並み。雪深い地であるが為、注ぐ陽射しの弱さを補うべく制定された景観条例に従い、建築物はどれもが白い外壁で築かれる。反射光によって全体を仄かに輝かせる街は潔癖に美しく、民の誇りとして愛されていた。
 その頭上、垂れこめたる曇天を根として、逆さまの大樹が巨影を浮かびあがらせている。絡み合う枝は微々たる速度で伸び続け、その異容さを遠目から観察するには、逆さの樹とも、氷の血管とも見えるのだった。
  
「解読中の石版には、件の現象と思しき記述が遺されていました。御承知のとおり、グレンツェ語を発すれば凍気が猛り、何が起こるかしれません。ですから、ここでは翻訳を用いることとし、氷の大樹をフリーレンと仮称します」
  
 グライブでは時間帯や気候の変化によって帯状の冷気が生じ、これを凍気と呼ぶ。自然現象の一部であり、凍気の近くでグレンツェ語を発声すると地より氷の棘が生えれば巨大な氷塊が落下するなど、無差別で危険な結果となる。その為、グレンツェ語の取り扱いは慎重を要する。
 曇天の下で暮らす吸血種達は、これまで冷気、凍気の起こす様々な不可思議と付き合って生きてきた。神妙な沈黙のみが、ノウェルズに先を促す。
  
「あの枝が地に到達すれば、グライブの全てが瞬時に凍てつく。全吸血種の死です」
  
 グライブの余命宣告までは、公爵達も事前に理解している。この合議の主題は、対策と方針の決定。

「滅びの期限は二年。通常なら民を国外に避難させるべきですが、如何でしょう。隣国への移送を」 
  
 ノウェルズによる細やかな補足を聞き終えてのち、沈黙を破ったのはカリヴァルドだ。
 石版の解読はまだ完了しておらず、数ヶ月は必要とノウェルズは話した。公爵達から質問があるまでは待機として、彼女は席に戻っている。
  
「隣国のヒト種との交渉が決裂した場合は?」
「淫魔は我々の交渉を有利に進める一要因となりましょう」
  
 吸血種の身体能力はヒト種を遥かに上回る。グライブを囲む外壁が築かれる以前、吸血種がまだヒト種と交わって暮らしていた時期に戦が起こり、ヒト種の盟友として吸血種もまた戦列に加わった。その時に齎した圧倒的な勝利は、現在もヒト種の地を他種族の侵略から守る畏怖の防壁として機能している。ヒト種は吸血種の加護を帯びている、と。
 しかし血と死に疲弊した吸血種は、壁を築くとグライブに引きこもった。以後はヒト種との関わり方を変えて、供血に際して接触するのみ、国交は長らく絶えている。こうした吸血種の繊細さを、淫魔は補えるとカリヴァルドは言うのだ。  
 淫魔とは吸血種の亜種である。吸血種以上に高い耐久性を備えており、一世代限りで生殖能力は無い。淫魔は強力な戦力として期待できるが、グライブの中でも長年に渡って秘された存在であり、ようやく社会の明るみに出たばかり。
  

「吸血種ならば被害を抑えるでしょうが、淫魔に実戦の経験はありません」
「リーベンの懸念は重要です。しかし、最悪を防ぎ、最善を為す、それが種族性管理を担う我々の職責」

 

 カリヴァルドは続ける。

 

「両国の障壁となるのは言葉の壁ですが、リーベンの教育方針により、一定の教育を受けたものは母語の他、通商語を話せます」

 リーベンが反論するか否かというところを不意の物音が遮る。一同が見遣ると、ノウェルズが姿勢を傾がせ、鼻から血を流していた。続く喀血。顎から下を血染めにしつつ、直立に背を正した女は、皆の視線を窓へと誘導する。
   
「フリーレンに変事あり」
  
 彼女の顎を、拭われぬままに鮮血が滴り落ちる。
  
「直下の隔離域に調査と負傷者の確認を。リーベン公、」
  
 告げた女は次こそ床に倒れ伏し、絨毯に散った銀髪が波紋を描く。窓硝子を隔てた先では、フリーレンの巨大な枝の末端から光の鱗粉が舞い落ちていく。枝が砕け、陽を浴びた欠片が反射に煌めき、公爵邸にまで届いたのだ。
  
「クディッチからも馬車を出します。伝令を」
  
 事態を理解したカリヴァルドが席を立ち、リーベンが首肯で応じる。合議で反発し合った両者は、意見が一致するや迅速な連携を見せた。 
 公爵達の指示を受けた家僕の足音が廊下に慌しく重なり合うなか、意識を無くして血を流す女を拾い上げる腕があった。
  
「よくぞ気づいてくれました、クディッチ紫書官。もう大丈夫ですよ」
  
 ノウェルズを抱き起こしたのは、キルベンス公爵だ。彼の場合、老いによる肌の乾燥は笑い皺として目元に暖かく刻まれており、リーベン、ヴィルベリーツァに較べて柔らかな印象を付与していた。
 医師でもあるキルベンスが患者を横抱きにして談話室を後にする一方、階下ではリーベン公爵邸の家僕に見送られて、カリヴァルドが玄関口に立ったところだ。足元は積雪に白く霞み、灰の空より降り注ぐ雪は雹へと硬度を増していた。
 彼が上向くと、額に触れる直前で氷が自ら砕け散る。グライブに降る雹は大小に選らず、吸血種を傷付けることはない。
 曇天より生まれ、吸血種の額で自滅していく雹。散り際に開花する氷の華はカリヴァルドの頭上で生死を繰り返し、雪の静寂の中、澄んだ音を立てて絶命の余韻を引く。
 彼は睫毛に乗った飛沫を瞬きで落とすと、軽く顔を拭った。革手袋を嵌めた手の暗闇に浮き上がる、倒れた妹の姿。気を逸らすべく、彼は近場に視線を投げる。全くの偶然ではあるが、雪景色に大気の揺らぎを見た。彼は片手をあげることで、見送りに出ていた家僕達を数歩下がらせる。

 

「キルベンス公爵とクディッチ紫書官の補佐に向かいなさい」
  
 玄関口の上部に連なっていた氷柱の牙が罅割れ、鋭い先端がカリヴァルドと家僕の間に落下する。
 脆くなった氷柱に凍気が触れたが為だろう。凍気はいわば、冷気に在って混じりきらない、とりわけ強い寒気だ。これがフリーレンにどう影響するか、まだ誰も知らない。転がった氷が映す風景は透明に歪み、カリヴァルドの眼前を吐息が白く濁らせる。
 地上との気温差の為に不思議な雹が降り注ぎ、普段に比べて寒さが和らぐのはおよそ二週間。この頃になると、凍礼祭と呼ばれる祭りが毎年開催される。丁度、フリーレンの出現と奇妙な符号をみせていた。

合議

3/淫魔          

 カリヴァルドが馬車に乗り込み、遠ざかりゆく車輪の響きが届いたか、リーベン邸内に横たえられたノウェルズが瞼を震わせる。寝台に肘を立てて半身を起こすと、視野の端に控えていた女中が介助しようと肩に触れた。

 

「結構です」

 

 ノウェルズは生来の体質から身体的接触を嫌う。介添えを拒絶された客間女中は背筋を正すも、眼差しは変わらずに優しい。

 

「承知いたしました。クディッチ様のリボンはこちらに」

 

 女中の白い手が枕元を指し、畳まれたリボンに気づいたノウェルズは薄い胸を起伏させる。安堵したのだ。
  
「宜しければ結ばせて頂きますが」

 

 控えめな申し出。喀血で汚された絨毯の染みを誰が片付けるかといえば、彼女達なのだ。

 

「お願いします」

 

 思い直したノウェルズに女中はスカートの裾を摘んで礼を返し、三つ編みを整える作業に取り掛かった。
 女中の方では銀髪に触れることは初めてであり、実のところはやや緊張していた。銀の髪は皮膚のうえを滑り、逃れ、水が編めないのと同じで意図せず零れる。手古摺るあまりに熱中する女中の側を、白い点が横切っていく。
 山形の軌跡を描いて飛ぶのは白い蜂、ハルモニだ。白く豊かな襟巻きで膨らんだ姿は、空飛ぶ毛玉の様である。ハルモニは尻だけが黒く、艶と尖りを帯びているが針はない。
 これに気付いたノウェルズが赤い瞳で行方を追うと、小さな蜂は宙を泳いだ先で白衣の背にしがみつく。キルベンスが折よく持ち出していた往診鞄を閉じたところであり、医師としての深刻な面持ちで振り返った。
  
「質問がある。私生活に踏み込むが構わないかね」
  
 ノウェルズが頷くと、彼は当たり障りない質問を経て本題へと移る。

 

「貴女は純潔かね」
「はい」
「前提の確認をしよう。淫魔とは牙を持たず、血ではなく精液を糧に生きる」
  
 吸血種が二親等内で近親相姦を侵すと、淫魔が生まれる。必ず赤い瞳を備え、銀と赤を発色しない吸血種の中では目立つうえ、銀髪は染料を受け付けない。
 成長過程において、この種には判定期という時期がある。吸血種でいうところの第二次性徴に等しく、体液、及び精液を得るに相応しい相手を選び出す時期なのだが、これは恋に似ている。
 愛した唯ひとりに抱かれれば三桁を生きる吸血種と同等の年数を生きるが、判定期を超えて交接が無ければ三十年程度で息絶える。ノウェルズは純潔のまま判定期を過ぎており、既に寿命を迎えていた。
  
「明日に死んでもおかしくはない状態だ。性質を了解済の衰弱かな」
「はい。私の死後に支障のない様、紫書官の引き継ぎは整えてあります」
「そうか。私は白蜂、貴女はグレンツェ語。専門は異なれども、同じ研究職という点で共通する」
  
 日向のような柔らかさで親しげに微笑み、キルベンスは寝台の側に肘掛椅子を寄せて腰掛けた。一旦は離れたハルモニが、彼の片眼鏡の淵に止まる。虫が視界を遮っても、キルベンスは金の瞳をレンズ越しに細めるばかり。
  
「クディッチ紫書官。僕は貴女の覚悟と功績を尊敬します。停滞していたグレンツェ語の解析を貴女が進めた」
  
 話者がなく、史料となり得るのは五枚の石版のみという厳しい条件のなか、ノウェルズは言語学者に匙を投げられて久しいこれに辛抱強く取り組んだ末に、グレンツェ語と分類した。
 言語の歴史に生じた音変化、形態変化を比較、類推し、研究の一環として発話を試みた途端、凍気が猛り、巨大な氷塊が宙で凝固し、飛来した。視認不可とされる凍気とグレンツェ語の音素は密接な関わりを持ち、グレンツェ語研究の深度が一定に達すると研究者は必然的に命の危険に晒される。
 過去の学者が研究から手を引く理由の一端を理解したノウェルズは、凍気の猛り――凍障を以て、グレンツェ語の歴史的価値と他分野への影響とを周囲に説き、研究所の開設が実現したのである。
  
「グレンツェ語研究に貢献できたことは私の誇りです」
「なればこそ、亡くすに惜しい。貴女には是非、恋をして欲しかった」
  
 心から惜しむ様子で、キルベンスが無念そうに続ける。
  
「最近になって、追肥となる淫魔にも質の違いがあると判明しました。貴女が充分に愛された淫魔であったならば、一体の死体でシンメルを回復させることが出来たかもしれない。花園を維持すべく、大量の淫魔を殺す手間も省ける」
  
 キルベンスの言うシンメルとは、リーベン公爵邸のみで栽培される特別な花の名である。この屋敷は中央に庭園を擁し、シンメルの花園を囲う形で建てられた要塞だ。
 シンメルの唯一の送粉者が白蜂であり、白蜂が生成する化合物を血液に混ぜることで、吸血種達はヒト種より供血された血の長期保存を可能としている。
 吸血種と根源的に深く結びついているシンメルは衰弱傾向にあり、回復させるための追肥となり得るのが淫魔の遺骸であった。淫魔を殺し、遺骸を加工し、花園に散布する。
 淫魔は一世代限りであるため吸血種の交配相手とはならず、淫魔の数が増えると吸血種は衰退するので無闇に相姦を繰り返すわけにはいかない。しかし全く淫魔が絶えては、弱ったシンメルと共に吸血種は滅ぶ。公爵達の懸念する同胞の死とはフリーレンに限ったものでなく、シンメルを軸とする種族性、その限界を危ぶんでのことだ。カリヴァルドが決断を急くのもこうした背景の上であった。
 現在公爵と呼ばれるのはリーベン、クディッチ、キルベンスのみ。爵位のなかでも特殊な分岐を経てこの三家は確立され、政治と密接な繋がりを持ちながら独自の執行機関として機能している。花と蜂の連携は吸血種達の生命線、公爵等はこれを管理、保護する重責を担い、種族性管理という役割として一括りにされていた。
  
「私の遺骸はクディッチの当主が処理するでしょう」
 
 カリヴァルドが爵位を継いでからというもの、淫魔の処理は一度も成されていない。それどころか彼は妹に市民権を与えた。ノウェルズは吸血種と肩を並べて名門ヴィレンスアクト学園を卒業、紫書官にまで昇進。彼女の半生は兄の尽力によって開かれたのである。

 

「……しかし、キルベンス様が私の遺体に関心があるのであれば、花園に散布する前に解剖してくださって構いません」
「なんと喜ばしいことだろう。純潔のまま貴女ほど長生きした淫魔の前例はごく僅か。早速ですが、承諾書を用意しても?」

 キルベンスの双眸は蜂蜜色に輝き、期待に満ちている。
 
「勿論。後世にお役立て下さい」

 

 医師免許を持ちながらキルベンスがハルモニの研究へと転身した事実は、ノウェルズには適切と思われた。患者に対する彼の態度は倫理観的に問題がある。
 薪の割れる乾いた音に、二者は暖炉を見た。室内を暖めていた火が揺らぎ、不意に青く変色する。雹の降り注ぐ頃には、燭台や暖炉の火にこうした現象が多々起こるのだ。
  
「出来ました」
  
 奮闘を続けていた女中は、達成感に頬を染めていた。彼女が身を引くと、ノウェルズの左耳の傍で輪上にした三つ編みが揺れ、青いリボンで結ばれていた。
 幼きノウェルズは踵のつかない高い椅子に座り、鏡越しに少年期の兄の、それでも大きく見えた手が細かな作業を素早くやってのける様を楽しい心持ちで眺めていたものだ。頭頂部から毛先に流れる銀の川は、カリヴァルドが磨き続けた輝きであり、今はノウェルズ自身が劣化させないよう維持している。片側に編んだリボンは滑り落ちてしまわない秘訣があり、手入れの仕上げといえた。女中に礼を述べて、ノウェルズは寝台を離れる。
 部屋の高さは二階。正面には別棟の壁が聳え、グライブの街もフリーレンも見通せない。
 窓を開けると雹の降り頻る音が鮮明となり、冷えた窓枠に触れていたノウェルズの手を、降り込んできた雹が直撃した。亜種であろうとも、グライブに満ちたる冷気が味方をするのは吸血種のみ。
 眼下に広がるのは中庭、一面を埋める純白の花園。上向きに咲く花弁はヴェールに似て端が波打ち、やや透ける。土を掠る長さの花弁が茎の傍で絡み合い、白のドレスを纏う貴婦人の姿にも、襤褸に脚を取られる痩せた女にも似ていた。
 あの白を支えるのは、生まれて間もなく殺された淫魔達の遺骸。クディッチ屋敷に眠る断頭台で胴と首を次々と分断し、流された血と肉。グライブでこれ以上に美しく、生に直結した墓地は他に無い。
 ノウェルズの側を、ハルモニがすり抜けた。銀髪の隙間を縫って遊んでいた蜂は、本懐を思い出すようにシンメルの花園へと降りていく。蜂に生まれついたからには、雹を掻い潜ってでも花の元へ馳せ参じるのだろう。その小さき背に彼女は学ぶ。為すべきことを成した先では、死もまた受け入れるべきものとなるはずだ。
 陽が昇り、月が沈み、新しい朝が来る。生を祝すに似た自然さで───できる限り、そのように。

淫魔

4/夜へ          

 書斎の窓辺に立つカリヴァルドは、背中でノックの音を聞いた。硝子越しに映りこんだ扉が、許しを待たずして開く。
 入室してきたのは、カッツェ・ロートヒルデ子爵である。暖色系の派手な色で流行の型を着こなすのが彼流の主義で、今夜も黄色のジャケットを羽織っていた。笑顔が第一印象に残る朗らかな男で、カリヴァルドとは学生時代から付き合いがある。
 窓辺にふたり立ち、青い火の灯る手燭をカッツェが差し出す。

 

「君に、青の幸いがありますように」

 

 凍礼祭の期間中、寒さは和らぎ雹が降る。
 火が青く変色する理由は定かではないが、青い火を手燭に移し、親しい者に手渡すというまじないが民の間では主流で、家僕も興じた。カリヴァルドがそうした遊びに交じることはないが、子爵でありながら好奇心旺盛なためか、カッツェは青い火を押し付けてくるのだ。
 カリヴァルドが手燭を受け取ると、揺らぐ火は赤く変色、入れ替わるようにして咥えていた煙草の先端が青に輝く。薄い唇からは苦笑と共に紫煙が漏れた。

 

「どうも吸いづらいね。せっかくの青い火だから、お前にあげようか」 
「そんなちんけな火、要らんわ」

 カッツェの金髪は後方に撫でつけられており、夜にも没さぬ陽が如くに輝く。長身故、大抵は頭頂部か額に話しかけねばならぬカリヴァルドの視点の高さに在って、彼の金髪は特に眩しい。
 カッツェの側を離れたカリヴァルドは、灰皿に影を落とすと、まだ十分な長さのある煙草を揉み消した。肘掛け椅子に腰掛け、遅れて咳き込む。体質に合わないのだ。それでも吸ってしまう。苦みが気分を落ち着かせ、滔々と止まらぬ思考が咳によって途切れる、その一瞬の空白を気に入っているのかもしれない。
 カッツェが翡翠の双眸を眇めた。

「君さあ、妹ちゃんと会ったりした?」
「何故?」
「カリヴァルドが煙草吸いだしたんは妹ちゃんが出ていった頃。最近やらんなと思っとったのに急にまた吸っとるから」
「会ったよ」
「ノウェルズ、元気にしとった?」

 淫魔の詳しい生態を知らないカッツェが暢気に訊ね、カリヴァルドは穏和に頷く。

 

「元気だった」
「ほんまか」

 

 カリヴァルドとカッツェ、ノウェルズは昔馴染みであるから、カッツェがノウェルズの不在を寂しく思い、健康を喜んだことは、僅かな表情の和らぎからも充分に見て取れた。
 グライブにおける爵位は種族性管理と深く絡みあい、子爵は種族性管理に関与しない。公的な場であるほどカリヴァルドの家格が目立ち、カッツェとの差が開く。しかし、そうでない時の二者はいつも互いの表情に注目しあい、よく笑った。

 

「僕の弟もこないだ久しぶりに手紙送ってきてんけどな。定期で近況報告くらい出来へんのかっちゅうねん」

 

 カッツェには年の離れた弟がいるがカリヴァルドとの面識は無い。誕生の吉報には祝の言葉を伝えたが、あまり過度な接触を持つべきでないと考えたのだ。
 クディッチとロートヒルデの間には、カッツェの知らない確執がある。カッツェの父、ビンギスがカリヴァルドの父、エヒトを殺害したのだ。カリヴァルドからしてみると、ロートヒルデ親子は父の仇といえた。
 示し合わせたことこそ一度もないが、カリヴァルドとビンギスは各自で口を噤んだまま現在に至る。
 憎しみが消えたわけではない。カッツェにわざわざ真実を知らせて笑顔を陰らせずとも、彼を斬りつけることなら何時でも実行出来る。その気がとんと起きない、というだけだ。
 要するに、カリヴァルドは取り返しがつかない深さの友愛を、カッツェとの間に築いてしまっていた。
 書斎机の引き出しの中にはビンギス・ロートヒルデから受け取った手紙が仕舞われており、病に臥せっていて、近々会いたいという。友は何も知らされていないらしく、カッツェから父親の話は出なかった。

 

「せやけど、中央図書館の崩落は魂消たなあ」

 

 暖炉傍の肘掛け椅子、カリヴァルドと差し向かいの位置に腰を下ろして、カッツェが話題を移す。
 リーベンの招集を受け、最もリーベン公爵邸に近い別邸に移ったカリヴァルドであるが、彼の治める領地に聳え立つ本邸から空を仰いだとて、フリーレンの存在感は失われまい。夜に見る氷の大樹は、根に相当する範囲は藍にクリームを垂らしたような雲が広がったまま、時間帯により形を変えても離散することがなかった。

 

「負傷者が無くて、何よりだ」

 

 フリーレン直下に建つのは、巨大な図書館だ。図書館とは各地に点在し、種々の公的手続きを担う複合施設。職員の全ては司書として統括されるが、彼等の仕事は蔵書を離れて多岐に渡る。供血の支給手続きと管理、行政事務を常駐する司書が行い、特に地位の高いものは歴史家としての側面を担い、公文書発布などに携わる者を司書の一等、紫書官と呼ぶ。紫書官は首都に置かれた中央図書館にのみ在籍した。フリーレンの欠片が降り注いだのは、この中央図書館の中庭である。
 フリーレン出現後は隔離域とされ、敷地内への侵入は禁じられていた。司書は別所に移り業務を継続しているが、カッツェが到着するより早く、蔵書を案じた司書が数名、現場に駆けつけていた。

 

「天の枝が落下し、地に触れた瞬間、周囲一帯が凍りました」

 庭園で育てられていた薔薇は、姿そのままを留めたまま、鮮やかに凍っている。

 

「破片は?」

 

 問うカッツェの爪先が、下草を踏む。氷菓子を咀嚼するような、哀れな音をたてて草が罅割れた。

 

「肝心の破片は形を喪ってしまいました。溶けるというより風に粒子が攫われるような消え方で、何も回収出来ていません」

 

 氷漬けの庭園はまるで硝子か、その脆さをいうならば飴細工で仕上げられたかのようだ。ここに同胞のひとりでも巻き込まれていたならば、不幸な氷像もまた、触れた途端に砕け散るであろうことは想像に難くない。
 カッツェが顎を反らせた頭上では、絡み合う枝が視界を覆う。樹皮は氷に似て白濁しており、芯に水が通ってみえる。雪を待ち構えるように片手を差し伸べると、偽りの水面が掌に乗った。外壁や柱、カッツェ自身が立つ足元にも、透けた光と戯れ、模様を変えて揺らぐ水面が目に付く。体温を根こそぎ奪う寒さの中、確かにカッツェの息は白い。だというのに、水膜の張ったような、或いは生き物の胎内に収まっている錯覚を彼は覚えた。
 カッツェは伯爵からの指示を受けて現場に向かったことで午後を潰されて、クディッチへの訪問は夜になったのだという。

 

「廊下まで薄氷が張っとったわ。フリーレンてのはリーベン様が決めはったん?」
「ノウェルズが言語学者としての見地から、石版に準じた仮称をと」
「僕んちの弟も司書やから、部下としてノウェルズと面識あったらおもろいなあ」

 

 カッツェが、微睡むように笑む。懐かしい記憶へと、心が舵を取り始めたのだろう。喉の奥に感傷を留めたままカッツェはクディッチ邸を去り、彼に代わって過去を言葉にしたのは女中であった。

 

「僭越ながらお声かけをお許し下さい。ノウェルズ様は屋敷にお戻りになりますでしょうか?」

 

 図書室の長椅子に寛ぎ、カリヴァルドは茶器の用意を頼んでいたのだが、支度を整えたのはドリスという娘だ。身分差に緊張して先の続かない彼女にカリヴァルドは頷く。

 

「いや、戻るまい。新しい部屋は必要無いよ。仕事が忙しいのだ、活躍している」

 

 最後の一言に、ドリスは励まされたらしい。

 

「ノウェルズ様は伯爵家にいらした頃から立派でした。勿論、旦那様も」

「私もか? 昔はよく君を困らせた」

 

 ヘッドドレスに金の巻き毛を詰め込んだ女中、ドリス。彼女はかつてヴィルベリーツァ伯爵家に仕えていたが、カリヴァルドが引き抜いてクディッチ家に連れてきた。以後は女中頭に次ぐ権限を与え、重用している。
 幼き日の兄妹は伯爵家に身を寄せていた時期があり、ドリスは小さなノウェルズの側付きであった。彼女達には絆が結ばれて見えたし、淫魔への知識も理解もないなかでドリスは献身的に尽くしてくれた。

 

「妹君をお任せ頂けたことは、この身の喜びでございます。どれも大切な思い出です」
「そうだね」

 

 過去を共有する存在の最たるものは家族、血縁だ。どこへ行き、誰と話せど、後から追いきたって肩を掴まれる。血痕のように転々と、或いは鎖のように巻き付き、歩む先へと引き摺らねばならない。
 カリヴァルドとノウェルズが兄妹ながらに独特の緊張感を内包しているのは、アーベル・クディッチとヴィーケ・クディッチが姦通した故のこと。アーベルとヴィーケは兄妹でありながら交わり、ノウェルズを産んだ。吸血種の近親姦で淫魔が生まれるのだ。
 カリヴァルドには叔父のアーベルが何を考えて母のヴィーケと通じたか甚だ疑問だが、彼等の内情に構う気力は既に失せている。 彼は非常に忙しい立場であるし、両親の咎で損害を最も大きく被ったのは、ノウェルズだ。
 兄がクディッチ家の権威を復活させたように、妹は紫書官として大成した。親から子、先代より続く泥濘の道は離別の十五年を経て、カリヴァルドとノウェルズの世代で絶たれた。そうと確信したが故に、ノウェルズは合議の直前、渾身の力でカリヴァルドの手を握り、信頼を示したのだろう。
 先代が管理していた頃は陰るばかりであった屋敷と領地を再興し、当代の主を得たクディッチの邸宅は最盛期、それ以上の絢爛さを帯びて、燭台が隅々までを明るく照らしている。
 カリヴァルドが息を詰めると、主の変調に応えるかの如く暖炉の火が盛んに燃えた。紫水晶の双眸が曙光の輝きに潤み、光が滑り落ちる。
 涙だ。暖炉の光を受けながら、彼は落涙する。吸血種が供血者の顔を知ることはない、探すことも。だが、その死を必ず感知した。
 吸血種、特に貴族階級は料理に混ぜて血液を摂取する。小瓶に収めた血を邸内の料理長に預けて、火を通さないソースや飲み物に混ぜ入れて糧とするのだ。食事の際、誰もが指輪に口付けてヒト種への感謝を捧げる。そうした習慣から、カリヴァルドはごく自然な仕草で薬指に口付けた。
 供血者との別れは唯一ではなく、長い寿命のなかで吸血種は短命の供血者を替えながら命を繋ぐ。それでも尚、面識の無いヒト種の死期を悟ると、大なり小なり理屈を超えた悲しみが去来した。同胞の誰もが覚えのある感傷で、それ故に涙を堪える術がない。
 
「この時に逝ってしまうとは」
 
 火にくべて弔いとするために、指輪は決まって木製である。カリヴァルドは目元を拭って立ち上がると、死者への感謝と共に指輪を外し、暖炉へと投げ入れた。火の揺らぎに飲まれ、輪状の絆が形を喪う。
 
「ありがとう」

 彼の感謝は喪失とは異なる響きをしていた。暖炉を睥睨する眼差しは暗く澄み、角度のためか一筋の光も及ばない。

夜へ

5/月の眷属        

 当時、淫魔の存在は公にはされず、シンメルの追肥に役立てられる顛末も秘されていた。近親姦を侵せば処刑される、それだけが一般の共通認識。だから、クディッチ公爵夫人ヴィーケと、その兄アーベルが近親姦を犯したと知った時、少年ながらに真実、カリヴァルドは死を覚悟せねばならなかった。
 母のヴィーケは儚い女で、屋敷にこもりがちであった。輝く美貌は社交界で際立つものであったが、口を開けば話題に乏しく見た目を台無しにする。エヒトが妻を連れて公の場に出たのは数えるほど。世間には病弱な女として面子を保ち、そこに嘘のないことが周囲を過保護にしたのか。息子の面倒を乳母に任せきりであるのは当然のこと、血統を媒介するべく窓辺に飾られた、花のような女であった。
屋敷の主たるエヒトは妻を窘めず、叱りもせず、挨拶や小さな雑談を交わす知人に似た親密さで、彼女をただ囲っていた。時折、入り婿のエヒトに爵位を譲ったアーベルがやってきて、ヴィーケと話をする。並んだ彼等は、双子を疑うほど容姿の似通った、美しい兄妹であった。
 家庭の異常性に気づかなかったカリヴァルドも、長じるにつれて知識は増える。母親があらゆる義務を放棄し、父がこれを黙認する状態に、彼は違和感を覚えた。生活様式は既に完成されており、カリヴァルドが責めたところで変化は望めない。カリヴァルドこそが次代のクディッチを、その権威を復活させれば良い。こう考えることで、一家の異常性に折り合いをつけ、自らを納得させていた。彼に必要な家庭教師、蔵書、剣技や馬術の実技的訓練、家令から授かった経営術を望むまま受けられる環境にはあったことは救いだ。家庭に異を唱えず静かに、将来のクディッチを支えるに足る骨子を彼は身の内に建築していた。
 そうした基盤が瓦解したのは、カリヴァルドが十四の夜だ。偶然にも、薄く開いた扉から長椅子の上で睦み合う母と叔父の気配を察した。こんな時には、一瞬で何もかもの詳細を皮肉なまでに拾いあげ、恐ろしいほどはっきりと理解してしまうものだ。詳細を検めず、呼気を聞くまでも無い。折り重なっていたのが母と叔父であったという確信は、彼のこれまでの生活と、あらゆる印象を打ち砕いてしまった。

「家族の愛情と、男女のそれを取り違えるなどあり得ないことだ」

 

 カリヴァルドは一家の揃う食堂で、こう母を糾弾した。
 近親交配は家系を病ませ、子孫に先天的障害を負わせる確率が高まる。淫魔に限らず一家を処するとの始末は、生物に備わる本能的危機感からの不文律であるとカリヴァルドは捉えていたし、母への嫌悪感がこみ上げる。少年の解釈は一理あるが、吸血種が近親相姦を禁じる理由は他にあった。
 吸血種の生息密度は一定以上あがらず、グライブという杯に満ちた吸血種は、亜種が増えると数が減る。出生率が下がるのだ。仮に淫魔との総数が逆転した場合にも、亜種は繁殖能力を持たないのだから種を維持することは不可能。よって、グライブでは近親相姦を特に禁じ、不文律を犯すものがあれば種族性管理機関の一角、リーベン公爵の下、貴族が率先して片をつけねばならぬのだった。
 夜のクディッチ屋敷へ遣わされたのはロートヒルデ子爵、カッツェの父親だ。武勲によって名を挙げた系譜にあり、広い肩幅、厚い胸筋は外套の上からも見てとれるほどに屈強。クディッチ家に到着し、玄関前に降り立った彼を迎えいれんと扉を開けたのは、カリヴァルドだった。
正面玄関の扉を押し広げた瞬間、絶望感に苛まれていた少年にとって、髪を嬲る外気は断頭台に吹き付ける風そのものに感じられた。身内の恥と差し迫った死への恐怖とに彼の指は震えていたが、玄関口に立つのがヴィルベリーツァ伯爵ではなく子爵であると見てとるや、死の心境から一転、抵抗の力を取り戻す。
 カリヴァルドにとって子爵は下位の存在で、ロートヒルデにクディッチが裁かれるなぞ侮辱に他ならない。怒りが体温をあげ、震えがおさまる。少年の顔付きが不遜な敵意に輝くのをロートヒルデもまた気取ったが、子爵の剣が振り抜かれた瞬間、血の飛沫をあげ、致命傷を受けたのはカリヴァルドではなく、息子を背に庇った父、エヒトであった。
 眉目秀麗なカリヴァルドと似ても似つかず、家僕と服を取り替えた方が似つかわしい凡庸な顔立ちの男。才気に乏しい彼は、家系の発展より維持に全力を注ぎ、世代交代を待つ繋のようなやり方で屋敷を保っていた。そんな男の唐突な振る舞いにカリヴァルドは面食らってしまい、崩れ落ちるエヒトを反射的に受け止めた。失血に蒼ざめていく額に髪を張り付かせて、エヒトがカリヴァルドの腕の中で呻く。

「娘が。森に、クラールハイトの手元に」

 口腔に泡立つ血が、遺言を濁らせた。夥しい流血がカリヴァルドのシャツを、ベストを、鮮やかな赤に染めていく。息子を写していた父の瞳孔が、上向きに逸れた。カリヴァルドの鼻先を掠めたのは、絶命を証明するシンメルの芳香。

「持たざる愚か者が、エヒト・クラールハイト」

 

忌々し気に言い、ロートヒルデ子爵が膝をつく。エヒトによる決死の一撃は、子爵の脇腹に届き、肉を削いでいた。父の絶命に気を取られていたカリヴァルドにとって子爵の傷は認識外にあり、遺体を抱えたまま、次に取るべき行動を導きだせない。子爵の背後に控える私兵を撹乱させたのは、続く家令の一撃だった。

 

「カリヴァルド様、お急ぎ下さい」

 

 鎖の激しい擦過音が玄関ホールに響く。巨大なシャンデリアが張力を喪って落下、床に衝突して硝子を散らす。一同が虚を突かれた隙に、カリヴァルドは父の遺体を置き去りにし、殺されるだろう母を振り返らず、クディッチ屋敷の玄関ホールを駆け去った。少年の靴音は走るほどに軽くなる。最後に聞いた家令の顔すら、彼は確認していない。自己と分ち難く結びつき、背負い続けていた嫡男としての責任感が覚束なく解け、遠ざかっていく。
 その身ひとつの心細さを体感しながら、クディッチ領に広がる草原を愛馬に跨って突っ切り、屋敷の喧騒を離れて森の闇へと飛び込む。
 貴族の矜恃を砕かれた惨めな負け犬だと、逃げ出した彼自身が自覚していた。公爵家の嫡子として生まれ、そうであるからこそカリヴァルドは家僕達に傅かれ、不自由のない暮らしを当然に享受した。
義務を放棄した彼には何も無い。だが、父に庇われ、惨めに生き永らえた身体の使い道は決まっている。森のクラールハイト、父の両親の家に向かうしかない。エヒトの血なぞ一滴も流れていないだろうに、父は今際の際に淫魔を娘と言ったのだ。そこに、どれだけの意味があるか、カリヴァルドは知らない。訊けるはずもない。
 家族が処刑されるなら、淫魔も同様であろう。彼が向かう先も、やはり死地だ。夜の森は、肥えた幹の踊る影の世界。立ち塞がる巨木は輪郭をうねらせ、不安の形を表すかのよう。地を這う木の根を愛馬が飛び越え、蹄の音を響かせる。軽快な馬の疾駆に反し、鞍に跨るカリヴァルドは惨めでならず、自己の価値を見いだせずにいた。頭上を覆う木々が、やがて月光を遮る。背後には屋敷が変わらず聳えていながら、振り返らないことを軋む良心が責め苛む。見下げ果てた母であろうが、殺されるとわかって放置するのが道義であろうか? 畜生だ姦婦だと母を罵るならば、同じ程度に自分が堕してはならないはず。
彼には、良心の呵責に耐えかねるからと道を引き返し、自分を擲つ真似は決して出来なかった。必ず意義と理由とを欲するのだ。なればこそ、ただ生かされたこの身を理性が受け入れない。認められない。
 向かい風が少年の顔を冷やし、慚愧と恥辱の涙で潤むのを防ぐ。たったひとつ、彼の家系に連なる生き残りは淫魔だけ。妹を救えという、父からの大義名分もある……この期に及んで、カリヴァルドは家族と系譜を忘れ去れないのだ。逃げ出した卑怯者の惨めな生ではなく、命懸けで「妹」を庇い、守り、公爵家の血に連なるものとして義務と矜恃に報いる道を闇雲にひた走る。
 そして彼は、深い森の奥でそれを見つけた。
 地上に在って銀に輝く頭髪。まさに、彼の自尊心を照らし、クディッチ公爵家長子の矜恃を保つ月の眷属、ノウェルズ・クディッチ。粗末なワンピースに身を包んだ、僅か八歳の娘との出会いがカリヴァルドの一切を変えた。
 クラールハイト男爵夫妻の家屋は木造、小屋同然の粗末な外観。細々とした暮らしは、処刑を定められていた淫魔を隠し、育てるためであったのだろう。
クディッチにロートヒルデが差し向けられたように、淫魔の育て親であるクラールハイト男爵夫妻もまた、淫魔の身柄を要求するヴィルベリーツァ伯爵と向き合っていた。子供を譲るまいと戸口を背にし、伯爵との膠着状態にあった老夫妻は、カリヴァルドという闖入者にどう反応すべきか迷い、緊張の糸が解ける。
 カリヴァルド自身が先ほどまで立たされていた窮地が、幼き少女を軸に再現されているのだと、一目で察せられた。老夫妻の困惑と伯爵の静観を他所に、歩み出たカリヴァルドは銀髪の淫魔へと手を差し伸べる。

 

「俺は、お前を迎えに来たのだよ」

 だが愛情は無い。それでも、カリヴァルドにはこの妹がなんとしても必要なのだ。屋敷を放って逃げ出した弱者という経緯を、妹を救い出すべく死地へ赴いた結果で塗りつぶし、自己の弱さを誤魔化さねばならない。渦巻く羞恥を永劫に引き摺り、あの場で死ぬべきであったと理性に糾弾され続けながら生きる苦痛に比べれば、この娘と共に此処で伯爵によって討たれるなど容易い。死んでしまえば煩悶を深めるばかりの思考も止まるだろう。しかし、それはやはり恐ろしい話である。生きる理由がないのに、死に行くことの出来ない、自分の理想に殉じることができない臆病さ、恐怖……生物として当然持っているはずの本能であると知りながら、彼は決してそれを自らの内に認めたくなかった。生が恐ろしく耐え難い羞恥を彼に与え、死がぞっとするほどに冷たい手で魂を掴み、それにより生じた怯えを彼に見せつける
 生と死の両方から逃れ、楽になりたいと切実に願う。生きていたくない、死にたくはない。助けはいない。何も考えたくない、だがここに、活路があるのだ。幼き妹さえ頷けば、頷かせてしまえば、新しく始められる。

 

「家族は、世界で一番強い愛で結ばれているのだと聞いた」

それは、カリヴァルドの糾弾を受けた母が、食堂で返した台詞の復唱だ。血の絆を理由とした母の痴れ言に対し、カリヴァルドは目の前に整えられた食卓をひと薙ぎにして退けた。
足元に散乱した食器の破片と、裏切られて砕け散った心情とが重なる。
 彼女の発言を吟味したところで、母と叔父は家族における一等の絆で結ばれているが、カリヴァルドとエヒトは愛情の順位付けをされた挙句に振い落され、しかし家族だからと累が及んだ結果、エヒトは殺害されたということになる。だとすれば、当事者以外をあまりにも蔑ろにする愛ではないか。
そうした苦しみと理不尽を味わったばかりでありながら、カリヴァルドは幼きノウェルズに囁く。どうしようもなく母に酷似した、麗しき美貌で。

 

「半分は血が繋がっているから、俺達は家族と言えなくもない。……ふ、はは」

 

 家族愛の甘言により子供を誘い込み、躍起になって手を取らせんとする自己矛盾に気付かずにはおれず、彼は嗤う。母の言葉を用いた自虐に肩を揺らすと、張りつめた神経に緩みが生じた。
 崖に指を引っ掛けただけの状態が続き、落ちたところで死ぬばかり。そんな諦観が彼の心の隙間に忍び入ると、体力的にも疲弊していたカリヴァルドは膝をついた。壁に頽れることを許すと、立ち上がり方は手の届かない距離に遠く思われた。寒気に冷えきり、寄る辺ない少年の手を、体温が包む。子供の五指が彼の手を、思わぬほどの力強さで以て、握っていた。

 

「助けて」

 

 救い手があって、単純に飛びつかない躊躇い混じりの声には、理知が宿っている。子供の慎重さに、混乱続きに晒されてきたカリヴァルドは顔を上げた。クラールハイト家の屋内、調度品もなく犬小屋同然の簡素な風景を、乱れた黒髪が縦に刻む。その隙間からみた子供の瞳は涙に揺れ、周囲の光を集めて鮮烈に輝いていた。暖炉に近くありながら熱を宿さぬ双眸は冷えた赤、硬質なる紅玉。縦に窄まる瞳孔は淫魔の証。

 

「助けて、私は死にたくない!」

 

原始的な生存欲求。怖いと認め、嫌だと叫べなかったカリヴァルドの芯を、ノウェルズの嘆願が貫く。彼が窮地にあって乞えず、終ぞ喉に引っかかったままであった本能を聞いて、喪ったはずの力を両腕に取り戻す。自らの精神性の為には、この夜を超えて生きるべく、妹の重みが欠かせないのだと。
始まりこそ、自己愛の延長として妹を月花と寵愛したに過ぎなかったのかもしれないが、返礼として彼女が捧げてくれた愛情は澄み切った潤いを湛え、少年期のカリヴァルドの精神を強く支えてくれた。いつしか、ノウェルズという存在はカリヴァルドの中で父の遺言を離れ、意義を新たにしたのだ。
 回想から立ち返り、カリヴァルドは顔をあげる。エヒトが管理していた頃は陰るばかりであった屋敷は、最盛期か、それ以上の絢爛さに輝いていた。彼は煤を払うようにエヒトの頼りない印象を世間から一掃し、斯く在れと世に望まれ、自身の目指す形を手中に収めた。古きクディッチは健在、暖炉の火も誇らしげに踊る。
 カリヴァルドの紫水晶の瞳は、火を吸って曙光と成す。夜に在りながら鮮やかな朝を迎える色が潤み、零れた。涙だ。吸血種が供血者の顔を知ることはない、探すことも。だが、その死を必ず感知する。面識の無いヒト種の死期を悟ると、大なり小なり理屈を超えた悲しみが去来する、それ故の涙は堪える術がない。
 左手の薬指に視線を落とす。心臓を暗喩する薬指には、木製の指輪が嵌っていた。吸血種、特に貴族階級は料理に混ぜて血液を摂取する。小瓶に収めた血を邸内の料理長に預けて、火を通さないソースや飲み物に混ぜ入れて糧とするのだ。食事の際、誰もが指輪に口付けてヒト種への感謝を捧げる。そうした習慣から、カリヴァルドはごく自然な仕草で薬指に口付けた。

 

「この時に逝ってしまうとは」

 

目元を拭い、立ち上がる。供血者との別れは唯一ではない。寿命の短い供血者が死ねば新しい血を得るまでのこと、そうして吸血種は命を繋ぐ。ここまでは、同胞ならば誰もが涙ながらに耽る感傷であったかもしれない。

 

「……ありがとう」

 

 仄暗い達成感は、彼だけのものだ。カリヴァルドの中で平衡に保たれていた秤は、供血者の死を受けて片側へと落下した。火にくべて弔いとするために、指輪は決まって木製である。彼は指輪を外し、暖炉へと投げ入れる。火の揺らぎに飲まれ、輪状の絆が形を喪った。

月の眷属

6/陽の輩         

 ノウェルズの住まいは地上を離れて三階、集合住宅の一室である。
 外観は縦の長方形、外壁は街並みに馴染む白。窓枠を飾る彫り模様が洒落ていて、張り出たバルコニーの鉄柱と、住民が使用する階段のみが黒い。
 彼女の部屋は物が少なく、偏っていた。書斎机と椅子はこの住宅に不釣り合いな一級品だが、本棚は度々壊れる脆さ。クローゼットは修繕をしつつ使い古している。水場は酒類を保管する棚にばかり気遣いが行き届いており、食事は外食が基本。調理器具はあるが、料理は不得手なままで死ぬのかと、殺風景な部屋に帰宅して彼女はぽつりと思った。
 日中に倒れた為に、早々の帰宅を命じられたのだ。寝台に転がっても眠りは浅く、咳き込んですぐに目覚めてしまう。いつまで体が動くかわからないと頭に過ぎれば、焦燥感に炙られて横たわってはいられない。常備していたタオルで口元の血を拭うと、ノウェルズはネグリジェを床に落として畳み、青のワンピースに袖を通す。着衣を正すことで心身を引き締め、書斎机を資料で埋めた。
 ノウェルズの死後、グレンツェ語研究は共倒れする可能性がある。そもそも言語学の歴史は浅く、後身に譲りたくても育った研究者がいない。それ故、ノウェルズは寸暇を惜しんで資料を纏め、研究所に遺そうとしているのである。
 静寂に筆記音を走らせて没頭するうち、手元が暗くなった。
 窓越しの空で、熾火のような夕日が輪郭を崩し、赤と藍とが混ざり合う。紫の濃度が深まるにつれ、星が明らかとなるだろう。
 彼女は燐寸を擦る。陽の輩を燭台に留め、卓上に被さる夜の気配を打ち払う。
 言語は常にそれが用いられた時代の風土や、土地の様子や暮らしぶりを内包する、無形の遺産だ。その時代、その時に存在した言語を喪うということは、現在を生きる者が連綿と続いてきたはずの過去の歴史や文化、死者の遺志に立ち入る術を一切合切、喪うということでもある。
言語は同軸の存在同士での会話によらず、あの頃から明日までの時間軸をも自由に行き来し、千年前でさえも瞼裏に描き出す偉大な力だとノウェルズは思うが、しかし衣食住に直接的影響を及ぼさない言語は、あまり社会に重視されない。だが、このような言語の価値を理解し、その喪失を食い止め、保全と復活に貢献する一方で、ノウェルズは研究の早期から、こうも考えている。グレンツェは遍く冷気、凍気と語り合う言語でもあると。
グレンツェ語は、その特質性により発音が正しければ瞬時に現象を現す。凍礼祭の雹は淫魔を認めず、屋根に落ちるのと同じく彼女に直撃するが、冷ややかなグライブはグレンツェ語によりノウェルズを見つけるのだ。
 感傷的に過ぎるこれらの考えを取り除いても、グレンツェ語の仕組みが明らかとなれば、吸血種全体の歴史を照らす松明が、ひとつ増えることになろう。
 研究所開設から十年、場所を選びつつ、凍気の猛りを頼りに発音を探る試行錯誤が繰り返された。しかしフリーレンが現れた以上、同じやり方は出来ない。
 同僚が言った。
  
「グレンツェ語の蘇生が呼び水となって氷の樹が出現し、我々は滅びの瀬戸際に立たされたのでは」
  
 フリーレンがグライブにどう影響を及ぼすかの裏付けを取っていくのだから、研究者の不安が強まるのは当然だ。
  
「吸血種でないから、滅ぶ恐れもなく解読を続けられる。貴女が淫魔だから」
  
 彼が語ったのは、亜種への不信だった。銀髪と赤瞳への社会的偏見は出世してからは目立たなくなったので、周囲に与える淫魔の印象をノウェルズは失念していた。
 研究所の併設された中央図書館上空にフリーレンが出現した事実も周囲の不安を煽ったらしく、助手は涙ながらに零した。
  
「不安なんです。本当に、みんな死んでしまうなんてことがあるのでしょうか?」
  
 民の誰もが密かに抱いている恐怖であろう。あの巨大な氷の樹は何か? どんな害を、災厄を齎すのかと。悲痛な苦しみと迷いを訴えた彼女に、ノウェルズは答えた。
  
「我々が死んだとしても、研究は遺さねばなりません。恐ろしいのであれば、貴方は辞任なされば宜しい」
  
 仮に記録が喪われ、研究者が死に、土地の新陳代謝に埋没しようと、過去から伸びる細い糸を誰かが掴むことはあり得る。ノウェルズ自身がそうであるように。
 全滅した先の視点に立つノウェルズに対して、助手は今を生きている。暮らしがあって未来があり、喪われるのが怖い。愕然とした彼女を前にしてノウェルズは視点の違いに気づき、迂闊さを悔いた。死が輪郭を得て背筋を這えば、慄くのは当然のこと。
 性交を拒絶した淫魔は短命である。漠然と受け止めていた事実が手の痙攣、急な発汗、頭痛などの諸症状として身体に現れ始めた頃、ノウェルズは恐怖した。症状が喀血に至り、身辺整理を済ませてもまだ怖い。助手や研究員に死の覚悟を強いるなど出来ようはずもない。
 ノウェルズは自室に寒さを覚え、羽織っていたストールを胸の前で掻き合せた。気分を変えるべく卓上を片付け、経過報告用のノートを取り出す。表紙と背表紙の四隅に彫金の装飾が施された、立派な装丁だ。キルベンスと交流のあった亡き職人による作品で、友好の印として渡された。
 可能な限りに自分の状態と経過を記すべく、記憶を手繰り寄せる。つられて、胸中の箱が開いた。仕舞われていたのは、ノウェルズが性交をせずに生きていこうと決めた起点。
 ノウェルズを八つまで育てたのは、愛情深きクラールハイトの老夫妻であった。夫妻は息子エヒトの仇ともなろうクディッチの淫魔を幼さのために憎まず、火を灯して暖かな食事と寝床、不器用な優しさを与えた。ノウェルズの眠るべき深夜、夫婦は手燭で互いの顔を照らし合い、僅かばかりに語る。
  
「私達に淫魔を託したエヒトの心境を、親だからこそ汲んでやらねばなりません。ノウェルズが孫かどうかは関係なく、子供に罪がないのは確かです」
  
 養父母は、最初から最後までエヒトの親として、ノウェルズに慈悲深かった。親が子の側を離れても衰えぬ愛情の深度をノウェルズはクラールハイト老夫妻から学び、同時にこうした環境が彼女の中で家族たる集合の価値観を、どうにも歪ませた。
 クラールハイト老夫妻が優しければ優しいほど、ノウェルズは早期に幼さと決別した。沈黙で周囲を窺い、意図を探る癖がついた。一刻も早く役立ち、価値を証明する必要があったからだ。エヒトの立ち位置を盗んでいると感じるごとにクラールハイトを家族と呼ぶには申し訳ないと自責を覚え、暮らしの端々で老夫妻の愛情の受け皿は自分ではないと実感した。クラールハイト、クディッチ、どちらとも結びつかずに八年を生きた足場は間借りも同然。緩やかに傷つき続けたノウェルズは、血縁と愛と家族に相関性を見出すことを我知らず止めていた。家族の輝きを信じれば、照らされぬ自分が傷つくだけだから。
 そんな彼女の前に、兄と名乗る少年が現れた。黒馬を駆り、深い森に飛び込んできた彼の髪は、夜に混じる暗色。屋内に踏み込み、暖炉の火に照らされた途端に鮮やかな紫に透け、髪と瞳に夜明けを現す。
  
「家族は、世界で一番強い愛で結ばれているのだと聞いた」
  
 曙光の存在感を備えた少年は、そう宣った。ノウェルズからすれば、血は生きていれば誰にでも満ち、死ねば流れるだけの体液。心を通わせはしない。
  
「半分は血が繋がっているから、俺達は家族と言えなくもない。……ふ、はは」
  
 エヒトの血に濡れながら手を差し出したカリヴァルドが、顔を引き攣らせて笑う。彼の言葉は何一つノウェルズを動かさなかったが、笑みの不自然さは奇妙に響いた。虚しさに共鳴を覚え、死にたくない一心でカリヴァルドを受け入れたノウェルズを、少年の腕が抱き上げる。しがみついた彼の首や胸から伝わる体温は熱く、触れた箇所から痺れるほどに染みて、気付かされた。ノウェルズが血縁を軽視し、水とまで意義を希釈するならば、縁無き男に命懸けで救われたことになるのだと。
 この恩義は、八つの胸にも強く打ち立てられた。カリヴァルドの説得により、淫魔の回収に赴いた伯爵は方針を反転、兄妹を屋敷へと招き、新しい日々が始まった。ノウェルズにあてがわれた部屋にはピアノが置いてあり、兄が弾く様をみせてくれたことがある。
  
「ピアノが受けいれられたばかりの時代、美しい音は銀の鈴を鳴らすようだと讃えられたのだ」
  
 染料を受け付けない銀髪に視線を遣り、カリヴァルドが鍵盤で指を踊らせる。騒音と旋律の区別もつかないノウェルズは音の暴力に身構えた。彼女は楽器を知らなかったのだ。
 零れ落ちる音を聴いていると、連なることで言語のように一種の意図、感情を宿していることに気付く。実に優しげな響きは、彼女の精神に張った緊張の糸さえ曲の一部として巻き込み、肌に触れずして語りかけてくる。いつしかノウェルズは警戒を解き、音楽に浴す心地よさを覚えていた。埃が光を浴びて鱗粉に擬態することがあるように、彼女の視界にも、見えざる光が煌めいていた。
  
「お前の住んでいた森を形成する針葉樹は年輪が詰まっていて、弦楽器の表版、音響版に用いられると抜群の共鳴性を発揮する。このピアノも、元を辿ればお前の身近にいたのだよ」
  「身近といわれても、樹と話ができるはずもないのに」
  「違いない。だがピアノとして、今しがたお前に語りかけたじゃないか。さあ、お前も滑らかに俺を呼ぶことだよ。御兄様とね」
  
 あの頃のカリヴァルドの話はどれも実態が掴めずにいたが、彼自身は少しずつ身近な存在となった。ノウェルズが答え、兄が続けたように、まさしく話をしたからだ。淫魔の軟禁状態は森から屋敷へ場所を移しただけで変わらない。ノウェルズは清潔で豪華な部屋にて、兄とやらを試した。
  
「お兄様にとって、家族とは?」
  
 問いに、カリヴァルドは答えなかった。ノウェルズに血濡れの手を差し出した時と同じ、侮蔑的な目をしただけ。笑いはしなかったが、唇は引き結ばれた。ノウェルズは高い観察力から、彼もまた家族についての虚しさを知るのだと理解し、追求を止めた。はじまりから、おかしかったのだ。カリヴァルドはノウェルズのせいで父たるエヒトを亡くしていながら、その原因たるノウェルズを救おうとする。曰く、家族だからと。血縁の有無で心が通わないと知っているはずなのに。
 数年が過ぎ、珍しくふたり過ごせた穏やかなる昼下がり、兄は唐突に語り出した。
  
「必ず、強く麗しい愛は存在する」
  
 彼は、選りすぐりの美しい言葉でノウェルズを育てた。兄から注がれる水と光を浴び続けたノウェルズは、彼の常らしからぬ具体性のない語り口に耳を傾ける。
  
「お前はそれを見つけるために、淫魔として生まれたのだ。稀有な色は、愛される使命を帯びた証。いつか、証明する誰かと出会うだろう」
  
 遠い絵物語を語り聞かせるような口調だった。彼の眼差しは優しく、あれは自分の手元に行き渡らないものが、せめて他者に恵まれよと望む祈りだ。いつか、何処か。その少しの距離感に、彼の孤独が現れていた。
  
「ええ、御兄様。ですが証明するのは誰かではなく、私自身です」
「確かに」
  
 希望を語るカリヴァルドは、信じていない顔で妹の為に微笑む。兄は清らかに愛情深い、自らを見捨てた親でさえ置き去りにしたと心を痛めるほどに。
  
「どうぞ、お静かに」
  
 愛を語るでもなく、語らせることもなく、ノウェルズは静かにヴァイオリンを構える。
 稽古の成果に高ぶる腕で、出会ったばかりの頃に聴いた旋律を、彼とは異なる弦に託して響かせる。窓から差す陽が兄とピアノを縁取る部屋で、零れた音が見えざる波間に彼らを包み、幾千の言葉を超越し、すべての解釈を許し、皮膚に分かたれず染みる水のように、芯へと訴えかける。何よりも、優しい響きで。
 ピアノの傍、陽光を浴びて輝くカリヴァルドの精悍な面持ちから憂いが晴れゆく。ノウェルズが弦を下ろすと共に、彼が妹の技量を褒める兄としての顔つきに切り替わる、間際に。
  
「これは月想曲。御兄様が私に聴かせてくれた、最初の一曲」
  
 上手く弾けたら伝えようという目標を果たすべく、彼女は息を吸う。彼が与えてくれた生と光を意識する。
  
「ヴァイオリンを弾けて嬉しい。御兄様のお陰で、今は生きたいと思える」
  
 自らの心情を告げ慣れぬ彼女は、台詞の陳腐さに肩の力を抜く。心底からの感謝を込めたものの、口に出すと重みを伝えきれぬ気がしたのだ。しかし、受け取った側は違ったらしい。
  
「お前ときたら、……はは」
  
 泣き笑いのような顔をして、カリヴァルドがピアノ椅子から立ち上がる。ノウェルズが長じた分より高く兄が伸びるものだから、ふたりの背丈は頭ふたつぶん離れたまま、縮まった試しがない。
  
「どうしてピアノでなく、ヴァイオリンなんだ? それなら俺が教えてやれたのに」
  
 お揃いじゃないなんて、とでも続きそうな声が頭上より注がれ、抱き締められる。饒舌な彼が二の句を継がずにいることから、どうやら肝心な想いは伝わったらしいとノウェルズは実感を得た。彼に照らされて育って尚、家系図の線などノウェルズには無価値のまま。しかし、兄が拘泥しながらも捨てはしなかった家族や血縁を、彼女もまた尊ぶ意味を得ている。
 どこかに望みながら彼自身でさえ信じきれぬ総ては、ノウェルズの視界でカリヴァルドという形を成して、絶えず眩しい。ドレスの内側にて淫魔の淫水が下肢を濡らしても、彼女の心は偽りなく妹としての矜恃に満ちて、陰ることはない。淫魔の性質にも、判定期にも、是非は問わない。異性愛と家族愛の境界を探り、無理やりな結論を引き出す必要もない。やるべきことも生き方も変わらない。
  
「だから、悔いはない」
  
 記憶が声に出た。それが、夜の隙間に滑り込み、死の恐怖に怯える心を癒す呪文だからだ。
 玄関をノックする響きに、ノウェルズは席を立つ。彼女は公私で交流を分けるので、夜に限らず自宅への訪問者は少ない。不審に思いつつ、扉を開けた。
  
「どうして」
  
 当惑を声にする。白い息を吐いて立っていたのは、ノウェルズの前で泣いた元助手、ヤナ・バッハムである。息を切らせ、旅支度を整えた風情であるから急ぎの合間を縫って此処に立ち寄ったらしい。
  
「夜分に失礼致します。長らくお世話になったものですから、お顔を見て御礼をお伝えしたくて。明日の朝には発たねばなりません」
「手紙を送れば済みましょう。夜に出歩くものではない」
  
 堅い調子で述べたノウェルズに反して、彼女は柔らかな苦笑に相貌を崩す。
  
「最後までご心配をお掛けして、申し訳ありません。私が辞めたあとにも、クディッチ紫書官が紹介状を認め、便宜を図ってくださったと知りました。お陰様で、異動後も暮らしに不便なく過ごせます」
「貴女は優秀な方。開設間もない研究所で尽力して下さった恩義を、私こそ忘れるわけにはいきません。通りまで送ろう」
  
 ノウェルズは着替えを済ませて外套を着込む。月があり星が頭上で瞬けど、夜道は危険だ。道先案内を雇って角灯で足元を照らし、少しの距離を歩く。ヤナが辻馬車に乗り込むまでを見送った。
  
「落ち着いたら、必ず御手紙を書きます」
  
 高い位置にある窓からヤナが顔を出して、声を震わせた。彼女の暮らしが落ち着くのを待たずノウェルズの寿命は尽きるかもしれない。職場で健常を装っていた為に再会を期待させてしまったが、届くはずの手紙は開封出来る気がしなかった。
 ヤナが不安を訴えた時に寄り添ってやるべきだったが、挽回の機会は無いだろう。ノウェルズはできる限りに優しく、ヤナの手を馬車内へと押し戻す。暖かな娘の温もりが、彼女の心に溢れるものを伝えるようにノウェルズの指へと染みて、離れた。
  
「新生活の充実を願う。さあ、酷く冷える夜だから」
  
 お元気で、との一言は車輪と蹄の音に掻き消された。石畳の通りを道先案内と共に引き返し、ひとりきりで黒い階段を登り、月に近付く三階へ。帰宅したノウェルズが後ろ手に扉を閉めようとした時、把手にかかったままの手が不意に引き摺られる。
 強風の悪戯と背後を振り返えると、佇立する影が月光を遮った。息を詰めたノウェルズは、渾身の力で扉を閉めんと内側へ引く。攻撃でなく防衛に出たのは、理由に先んじた反射だ。膂力に負けて扉が開き、影が敷居を跨ぐ。再会は、スムスを前に理解を示しあって完結したはず。だから公爵ではなくノウェルズは兄と呼び、彼の片手に触れてもいいと己を赦せた。淫魔に生まれた我が身を許容し、兄を信じられる喜びが彼女に誉れを授け、血を水として何が穢されることもなく背筋を伸ばし続けていられた、はずだ。
  
「花影にお隠しを、ノウェルズ」
  
 それは、シンメルの白い花弁が瞼を覆い、穏やかな眠りに誘うようにと祈りが込められたグライブにおける夜の挨拶。
 実兄たるカリヴァルドが微笑を浮かべ、ノウェルズの警戒を肯定した。妹の足元を照らす僅かな月光が削がれ、兄の背後で閉じゆく扉が二者と外界を隔絶する。夜に響く重い施錠音、兄妹の監獄が完成した。

陽の輩

7/皆既蝕         

家族愛か異性愛か、心を置き去りとした肉欲か。答えの出ない問いだ。
 彼は妹の煩悶に早期から気づいていたが、ノウェルズの態度が頑なさを増すのを親離れと受け止め、距離をとることは成長の証左と解釈した。淫魔の欲情を無いものとして振る舞う彼女の姿に、カリヴァルドもまた親の自覚を強め、甘やかしてやりたいと揺らぐ己を律したのだ。過干渉となってノウェルズの可能性を潰すよりは、豊かな未来を望めるはずだと期待した。あの頃はまだ、と付け加えなければならないが。
 薄暗い室内にて、燃え尽きた燭台の焦げ臭さが薄闇を彷徨い、鼻先を掠めたところでカリヴァルドは愛想笑いを消す。
 
「お前は潔癖で狭量だ。ノウェルズ」
 
 最早、第三の道が開かれる可能性は極限まで擦り減っている。残されているのは、カリヴァルドが引き続き兄としての面目を保って妹を看取るか、淫魔に選ばれた唯一として妹を辱めるかの二択だ。
美談に浸かっていられるのもここまでと、彼は一歩で距離を詰める。妹の胸倉を力任せに掴みあげると、壁に叩き付けた。弾みでノウェルズが後頭部を打ち、風を孕んだ銀髪が一拍遅れで彼女の肩と胸とに舞い降りる。
 
「性交渉、それだけを割り切れば溢れるほどの可能性は満ちているのに、お前は死を選ぶのか」
 
 力ずくで吊り上げるに従い、ノウェルズは爪先立つことを強いられて、黒のタイツに包まれた爪が床を掠る。
 
「寿命と心得て、先に望むものはありません」
 
 気道を圧迫される苦痛に顔を顰めながら、ノウェルズが掠れ声で言った。
 
「餓死を選んでおきながら、何が寿命なものか。俺は、お前を死なせるために手放したわけではない」
 
 胸倉を掴み上げたまま俯き、妹と額を合わせる。グレンツェ語研究の保管庫たる額は小さく狭い。睫毛の触れ合う近距離で、視界はあらゆる輪郭を喪う。
 相対する兄と妹の間には、良心による十五年の歳月も、相互に建築した理性による卓子も存在しない。体格差による弊害で互いの胸が離れ、兄の影に妹が飲まれる。或いは、陽と月が重なる皆既蝕のように。 カリヴァルドが鼻先を重ねると、ノウェルズは嫌悪も露わに顔を背けた。
 
「私の生涯だ。終わり方も私が決め、」
 
 ノウェルズが絞り出した語尾が喀血の濁音に飲まれる。カリヴァルドは小さな顎を捉えて固定すると、血を恐れずして赤く濡れた唇に舌を這わせた。粘膜の触れ合う音を嫌って藻掻く女を壁との隙間に挟み、角度を変え、妹の口腔に満ちたる血を呻きごと啜る。
吸血種が血を嚥下する際、供血者が存命中であれば吸血種は死ぬ。だから、新しい血を得た場合には、その瞬間より一対としての契約が結ばれ、最早他の誰の血をも受け付けず、文字通りの運命共同体となるのだ。

 カリヴァルドは絡ませた舌でノウェルズの絶望を捉え、返礼として唾液を流し込む。襟を離して床に踵が着くのを許す代わりに、片手で素早く彼女の鼻と口とを覆った。

 

「飲み干せ」

 酸素不足による反射的な嚥下を認めて、妹から手を離す。支えを失い、ノウェルズが膝をついた。淫魔の飢えが四肢を弱らせ、唾液に感化されて虚脱したのだろう。カリヴァルドが共に目線を下げたところへ、妹の上体が頼りなく倒れ込む。

「私と貴方が建設した地位、結んだ周囲との絆、一切の努力……全てを侮辱する下劣なる行為。誰が救われましょう」
 
 ノウェルズはカリヴァルドの胸の暗がりに顔を埋め、兄の体液を得た過剰反応に呼吸を浅くしながら、正道へ戻れと糺す。
 
「自らとは何者であるかを思い出して下さい。貴方は近親姦の被害者だったはず」 
「だけど俺は変わったよ。俺も随分と経験を積んだし、お前もそうだろう。俺達は、秘密を共有できる。いや、すべき立場にある」
 
 被害者と加害者から共犯に持ち込んでカリヴァルドが微笑むと、妹が顔を引き攣らせる。
 
「生きていれば良いという価値観は、私には肯定でなく否定です」
「お前の思想を侮辱する気はないが、自死は認めない」
 
 カリヴァルドの声音は、酷薄なほどの冷静さで乱れない。それだけに、ノウェルズと対話するつもりはなかった。
 
「身近な者の死に耐性が低く、情の深いことは吸血種の特徴。貴方方は愛に弱り、判断を誤る」
 
 妹は感情論に見切りをつけたのだろう、種族性を持ち出した。
 グライブの歴史は大別して二つに分けられる。壁の設立以前と、以後である。以前の吸血種達が直接ヒト種の社会と交わっていた時代、供血は相互同意の下に行われる愛情行為に似ていた。短命なるヒト種の後を追って自害する吸血種は、戦死した数を上回る。物理的に離れなければ、全体数を維持出来ずに滅び去ったことだろう。
 グライブを外部と隔てる壁は、ヒト種との愛情で身を亡ぼす吸血種を救い、同胞間での繁殖を促す目的もあったのだ。 そうした経緯と性質を、彼女は指している。
 
「誰に情を傾けるか選ぶくらいは出来るさ。お前も、そうして俺を選んだはずだ」
 
彼女は答えない。その喉を何が塞いでいるかといえば、兄への思慕という石だ。消化もできないくせに、決して吐き出そうとしない。宝石のように仕舞いこみ、自己完結で済ませ、頑迷に兄を睨む。
 
「我々が寄り添ったところで何になりましょう」
「何に……だって?」
 
ふと、カリヴァルドが声を綻ばせたのに対し、女が身を強張らせる。不利な発言だったと勘付いたのだろう。何も欲しくはないと繰り返す喉へと指を這わせ、恐れることはないと目で嗤ってやる。
 生涯の建築の見通し、努力が崩れた時の苦痛をカリヴァルドとて過去に体験している。恐ろしく高い自尊心により、死にたいとも叫べず生きたいとも言えなかった彼の視界は、ノウェルズとの出逢いによって眩くも拡張された。愛すれば応えてくれる者がいる世界、愛されることを識る自分へと。ノウェルズへの敬愛と真心から、彼は積み上げてきた概念を反転させる。妹と同じ血に濡れ、契約を交わした唇で。
 
「愛しているよ、ノウェルズ」
 
 独善的で、嗤うほど意味を蔑ろにしながら言葉ばかりが美しい。ノウェルズが、泥でも塗られたように相貌を歪ませた。
 
「いいえ。それは、貴方が過去に軽蔑したもの。私が学んだ愛情とは違う」
 
 カリヴァルドは妹の切実さを駄々に貶める、殊更優しい顔つきをしてみせる。
 
「では、生きて憎め」
 
 彼は取り出したハンカチーフで血に濡れた妹の口元を拭い、痩身を横抱きにする。舞台を白く波打つ敷布の上へと移して妹を横たえると、無残で清らかな香りが漂う。花束を散らしたような、懐かしくも嗅ぎ慣れた淫魔の体臭。シンメルの芳香だ。
 カリヴァルドは脱いだ外套を、椅子の背凭れに預ける。不相応に美しい椅子と机は、紫書官、或いは言語学者としての聖域であろう。身動ぎ出来ない妹を睥睨しながら、彼は手袋を外してタイを解き、取り外した袖口と襟のカフスを書斎机の上に転がす。
寝台の上、ノウェルズの背で広がる銀髪は扇状に広がり、月の水面に彼女を浮かべていた。軽装となったカリヴァルドは広い背で月を覆うと、女の頬に手を遣って身を屈める。
 
「私達は」
 
 唯一の武器たる舌で、肉に封じられた妹の魂が叫ぶ。救いを求める訳にはいかぬ懸命さが混じり入り、音程を乱した。
 
「私達は、家族でしょう」
 
 裏切ってくれるなという響きに感情を摩擦され、カリヴァルドは怒りによって彼女の真剣さを打ち返す。
 
「家族だからだ」
 
 血縁関係に驕ったいつかの甘言とは異なる、彼自身の胸中を由来とする言葉で。
 
「性交をしてもしなくても、家族だ。生きるために何故かとの理由など不要」
 
 ノウェルズが目に見えて絶句する。崇高さを旨とするこの女は、かつての大義名分なくして立ち行かないカリヴァルドに教育されたのだから、当然であろう。
 
「淫魔の気質はお前の咎ではない。一滴の汚濁も許さないお前の潔癖さが、自らを死に導いている。愛情とは、生かすものだ」
 
 恋仲を擬態することは容易いが、それこそ茶番。彼我の腹腔を掻き回しあって罵らずにおけないのは、感情に直結した情熱が彼にもあるからだ。浅薄な自己犠牲なぞではない。彼女が終ぞ自己肯定感を持ち得なかった深部へと、彼は告げる。
 
「他者を許すように自らをも赦せ、ノウェルズ」
 
妹が愛し合える者と出会ったならば、誰ぞ見知らぬ相手であろうと、無条件に妹を任せていいと考えていた。だが結果はどうだ。この女は結婚の誓いなどするつもりはなく、墓へと収まろうとしている。それはカリヴァルドにとって度し難い裏切りであり、妹の気質からは最も順当で、最悪の予想だ。
 
「全てを赦す貴方のお考えは私の対極。分別というものをお忘れであるならば畜生と同じ、貴方は私の兄などではない」
「結構だ、偏狭な正しさなど捨ててやる。唾液で喀血も止まったな? その調子で怒鳴れ、破瓜の痛みも紛れるだろうよ」
 
 耳朶で囁き、吐息で女の首筋を擽る。生娘が獲物の自覚に震えたところで、皮膚に舌を這わせた。浮いた冷や汗は、香りと相俟って茎を伝う夜露のようだ。
胸や腕が掠る度、反抗に力むノウェルズの緊張が伝わるが、目端で捉えた彼女の腕は敷布の上を動かない。
 ノウェルズが食いしばる口元の硬さをせせら笑い、胸元に手をかける。左右に開けば、容易く留め具が弾けて素肌が露わとなった。胸元の凹凸は薄い。慎ましさに比例して、乳頭は花の色をして小粒だ。
 
「まともに食事も採れていないのか。最も、肝心な栄養素を拒否し続けた弊害であるかもしれないが」
 
 骨と皮の有様を危ぶんでいたカリヴァルドであったが、組み敷いたノウェルズは贅肉の一切ない、彫刻めいた均衡を保っていた。未成熟な少年に通ずるか細い四肢。骨は硝子ではないかと想像させる、蒼白い肌の透明感。薄く浮いたあばらの凹凸をひと撫でし、大きな掌で肋骨ごと包むようにして柔肉へと触れる。骨の上を泳ぐ脂肪を内側へと寄せて優しく捏ねると、緊張に固くなった乳頭が掌に擦れた。熱を分け与え肌理を楽しむ広範囲の触れ方から、鋭い刺激へと切り替える。乳頭を指の腹で押しつぶし、凝りを虐めるように摘んだ。
 
「……ッ、ぐ、」
 
 食いしばった歯の根から、ノウェルズが苦悶を漏らす。彼には触診のように味気なくとも、刺激を与える都度にノウェルズの腰は跳ねた。淫魔にとってみれば命に関わる行為であるから過剰反応を示すのは当然だが、彼女自身の性感も過敏であるのだろう。
 カリヴァルドの前髪が、雪色の肌に散る。胸元の尖りに吸い付き、口腔に含んだまま舌で転がす。汗を浮かせ、時に震えながらも、ノウェルズは息を殺して耐えていた。
 彼は、敢えて早すぎる段階でスカートの裾を捲り上げると、薄いタイツを躊躇いなく引き裂き、穴から手を差し込んで無遠慮に妹の下着の中を弄る。体温に蒸れた布の内部、探る指に縦筋の淡い凹凸が触れるや、溢れる蜜に指先が浸かった。愛液の滴りはスカートの布地を過ぎ、敷布にも染みを広げているかもしれない。失禁したかのような分泌量である。
 
「こうも濡れては乾涸びてしまいそうだな。気絶するなよ」
 
 軽口を叩き、妹に覚悟を促す。性交は淫魔の生命を繋ぐ唯一の延命措置。衰弱したノウェルズの身体には、いくら精液を注いでも足りないはず。一度の交接で解放してやるつもりはない。
 なだらかな恥丘の下、ノウェルズから溢れた透明な膿を掻き混ぜ、誰に何をされるか、男を知らぬ器官に教え込む。
 縦の溝に添い、時に腹側の壁を摩る前後運動を繰り返していると、恐怖でなく快楽を掴んだのか、膣襞が異物の形を探るように吸い付いてきた。どうにか入口を寛げる余裕は持てないものかと指を二本の太さに増やして浅瀬を往復しつつ、親指で小粒の陰核を擦る。奥から熱い愛液の一波が押し寄せてノウェルズが呻いた。
 微かな触れ合いで遊ぶのも愛撫の一環として彼女には効果的であろうが、それよりもカリヴァルドの血の巡りが肝心だ。五感でより多くの情報を得て、勃起に至る興奮へと繋げるべく女の臀部を浮かせる。彼女の警戒心を煽るついでに、黒いタイツを戯れに引き裂き、まばらに素肌を晒した。あと少しで喪うが、未だ処女の身では耐え難き体勢と乱され方であろう。
 上向きに晒した女性器に口をつけて、愛液を吸い出す。腹から折り畳まれたノウェルズが、カリヴァルドの眼下で顔を赤らめた。嫌悪による怒りの血色とみたが、舌を差し込むと容易く瞳が焦点を喪い、蕩けていく。飢餓に耐え続けた身には、摂取がどこからであろうと兄の体液は酒のように回りが早いらしい。いや、この妹は酒に滅法強かったと、場違いなことに気を散じそうになる。二枚の花弁を指で引いて縦の裂け目を開かせ、薄い花弁を下から上へと舐め上げた。尖らせた舌を花芯へと埋めて荒らしつつ、気紛れに頂点の粒へ歯を当てて舌先で揺すぶり、確かな快楽を刷り込んでいく。
 
「ぁ、うぅ……は、っ」
 
 舌で穴を掘られた衝撃と、粘膜で膣壁を丁寧に擦りあげられる驚きとにノウェルズは酩酊状態となり、眼光に正気を取り戻せど、また沼へと引き込まれゆくのを繰り返す。
 奥へ向けて舌を差し込んだとき、締め付ける膣圧からノウェルズが諦めていないことを感じ取った。四肢が無効化されても、腹に力を入れて拒絶しているのだ。花の香りと蜜の味わい、彼女の闘志に手応えを覚えて、カリヴァルドの腰にも血が溜まり、下肢が窮屈さに痛む。
 吸血種には発情期がある。二ヶ月に一度、堪えきれない衝動ではないが、気分が乗りやすくなるのだ。長く女を絶っていたせいもあろう、膨張する感覚は久方ぶりの攻撃性をも伴っていた。
カリヴァルドは女の花から顔を離し、手の甲で口を拭う。ノウェルズの双眸に輝く敵意が緊迫さに揺らぐ。窮地に瀕して、止めを刺される段階と悟ったのだろう。
窓枠の影が、兄妹の上を歪みながら這う。肘を曲げさせて肩の高さに彼女の手を置き、近々新しい指輪を嵌めることになろう筋張った左手の指を絡ませた。
 
「清貧を極めた後で飽食に投げ込まれれば、痩せ我慢の仕方も忘れよう」
 
 十五年も死の恐怖に抗った身だ。擦り切れたはずの精神に堕落せよと舌で唆し、カリヴァルドは女の怒りと恐れを飴玉に変える。
死を見据え、覚悟を重ねた妹の気性からして、この先に伸びる屈辱的な生は受け入れ難いことであろう。第三者からの許されないという批判よりも、自己を由来とする許し難いという感情のほうが、よほど自尊心を蝕む。対象にこの上なく愛した相手が含まれるなら、尚更だ。
 肉を持たざる部位に傷をつけるためには、心に深く根付いた媒介がなくてはならない。愛であるならば、覿面の剣だ。世で尊ばれている通り、最も深くノウェルズを貫通し得よう。それを、カリヴァルドは持っている。
 
「楽にしてやる」
 
 内情とは裏腹に、彼の行動は限りなく憎悪に似通う。カリヴァルドは片手で妹の首を掴むと、強く締め上げて気道を圧迫した。

 

「い、」

 

 裂かれた衣服を無残にまとわりつかせたノウェルズが苦痛に喘ぎ、拭われることのない唾液が頬から耳へと垂れていく。形ばかりに繋いだ妹の掌が汗ばむのを感じながら、カリヴァルドはノウェルズの首に回した手に一層の力を込める。筋肉の筋が浮き、甲に血管が走る。女の唇が酸欠に戦慄き、紫がかって変色していく。

 

「ぇげ、ぁっ」

 

 生命の危機にあっても、ノウェルズの四肢は垂れたまま。絶えないシンメルの芳香の中、無抵抗を強いられて痙攣する女の紅玉が、やや上方に逸れる。意識を失う寸前に、カリヴァルドは絞殺の姿勢を解いた。生死の境界線へ無理やり押しあげられた妹は、手を放した途端、剥き出しの胸部を大きく上下させて酸素を取り込む。完全に彼女の気が緩んだ隙に、屹立の先端を膣口に宛がい、濡れた肉とを擦り合わせて未開の蕾を貫く。入口をへしゃげさせ、捩じ込んだ亀頭で処女膜も抵抗も一緒くたに圧迫を押し切り、力ずくで突貫する。
 
「がっ」
 
 文字通りに腹を突き破られて、ノウェルズが殴打を受けたかのような悲鳴をあげた。出血する穴が熱く脈打つ。彼女の鼓動と体温が、急所を通して伝わってくる。
 性交は今後、何度となく行われるのだ。首を締めたのは体格差への配慮、小さな膣口が裂けるのを危ぶんだに過ぎないが、そうでなくともノウェルズが力を抜かねば潜り込めはしなかったろう。腕にしろ脚にしろ、ふた回りも差のあろうかという男の陰茎を、指の三本も押込み難い膣に挿入するのは生娘には負担が掛かりすぎる。裂けたところで止めはしなかったが、確認のために指で膣口のあわいを探ると、結合部を濡らす出血は破瓜のみで済んだらしい。
 安堵してから、カリヴァルドは自身もまた妹の負傷に緊張していたと気付き、上体を起こす。窓際の寝台、月明かりに照らされた白い肌の一点に、不釣り合いに太い怒張が血管を浮かせて埋まっている。無理やりに嵌め込ませた兄妹の凹凸、色の差異と組み合わせが奇妙に映った。脈打つ兄の陰茎の輪郭を血が舐め、伝う。膣口から覗く淡い色の粘膜は輪状に引き攣り、限界まで薄く伸ばされて拡張されている。血管の凹凸にさえ添い、彼我に隙間がない。膣口がノウェルズの呼吸に合わせて締まる度、差し込んだカリヴァルドとしても幹が鬱血しそうな錯覚を覚えた。
 彼は妹の身体を透かし、自身の怒張が収まっているであろう臍より下を撫でる。この胎の奥に、妹が死を覚悟してでも守らんとした家族愛や、矜持の結晶が詰め込まれている。そこへ濁った白濁液を注ぎ混み、逆流するまで犯し抜くのだ。
彼女が墓まで持っていこうとした思慕を暴き、生を以て魂を侮辱する。未来を肯定すれば過去を否定する二律背反。
 破瓜の痛みに震えたままでいるノウェルズの脚を抱え直すと、腰の位置を合わせた。
 
「ぐ、けほっ……、出、」
 
 相当な圧迫感があるらしく、ノウェルズが苦悶に咳き込むが乾咳だ。
 
「ああ、堪えずに何であろうと出せ」
 
 花弁はカリヴァルドの根元を食み、何百という襞が複雑な蠕動で急かし、埋めたら突けと静止を許さない。持ち主の意志に反しながらも、苛烈な反応は彼女らしくもあった。律動に腰を揺らすと、寝台が兄妹の重みを受けて軋みをあげる。
押し出されそうになりつつも肉の密集した蜜壷を突き、雁首で粘膜を削ぎながら彼専用の穴へと胎内を作り変えていく。最奥の壁が侵入者たるカリヴァルドを受け止め、急激に吸い付いた。
 楚々とした小さな花が犠牲になった見た目のまま、穿つ度に膣奥は精液を強請って急速に練度をあげていき、怒張を貪欲に咀嚼する。腰を引けば追い縋るように襞が絡み付き、押し込めば肉の小波が歓迎する。敷布にる深い皺に受け止められ、揺すられ続けるノウェルズの眦から涙が伝った。
 
「止ま、止しなさ、い!うぁ、あッ」
 
 ノウェルズの苦悶は快楽に近づいて甘やかだ。絶え間ない愛液に早くも破瓜の血は洗い流されている。摩擦により体液が泡立ち、吐精を待たずして白く濁っていた。
 名器と呼べる胎内、それも格別の品である。相手が実妹であるため、情欲に熱中しきれぬカリヴァルドでさえ、中毒になりかねないのではないかと危ぶむほどの。
 
「酷く揺さぶるが、我慢なさい」
 
 忠告こそ穏やかだが、容赦はしない。女の腹を躍起になって掻き回し、淫らで卑しい音を夜に響かせる。カリヴァルドを包み、悲鳴と嬌声で泣き叫ぶこの熱は、身体を離せば必ず冷えて、いつか跡形もなく土に還る時が来よう。想像するにも苦痛で、カリヴァルドは自重を支える腕の先で、堅く拳を作る。
 
「ぁ、ああ、」
 
 妹の涙は中心を穿たれる生理的な衝撃によるものか、懊悩の現れか。なればこそと、カリヴァルドは切実に思う。彼女の精神性に光を見るほど、失くすのがあまりに惜しく、寂しく、悲しく、尽くせる手を全て尽くしたい。
 ノウェルズが引き寄せるまでもなく、死は必ず訪れる。生まれたからの必然。誰にも変え難い、存在の結末として彼女に約束された死とやらには、嫉妬に近い怒りを覚える。世から孤立した幼き妹は、かつて血を水だと言い、家族とは何かとカリヴァルドに疑問を投げた。少年時代の彼は、この問いに答えられなかった。
 家族とは同じ囲いに暮らす集合の名か。違う、それでは足りないと今のカリヴァルドならば答えてやれる。自らの何を分け与えても、当然と思える存在こそが家族だ。血に因らず、心と時にのみ育まれる実感が、時に粗雑さを伴う安堵が、無防備な信頼が、あらゆる危機を前に、自分と同等の一部として救わねばおかぬという激しい衝動と責任感を伴うこの想いが。親子と夫婦の違いを含むが、それでも家族と総称される概念を彼はノウェルズとの間に構築した。
 死にたいではなく、生きたいと妹に望まれたときの、愛が届いた感動。氷と化していた慚愧が溶け、いつかの森で寒風に乾かされたはずの涙が頬を濡らす解放感。彼の腕の中に在って、家族としての喜びを与えてくれた存在。カリヴァルドにとって、それが妹だ。
 シンメルの供物になど誰がしてやるものか。カリヴァルドの心を反射し、共鳴した片割れを維持したいという望みは、負傷した腹から臓腑が漏れ出ないよう傷を抑えるのと同等の切実さだ。
言語学者たるノウェルズを生かす理由はいくらでも数えられる。だが、今のカリヴァルドはそうした正当性を並べる必要が無かった。心から愛した相手に、一秒でも長く生きていてほしい。他に理由は要らない、ノウェルズが決して容認できないのは当然だ。彼女が彼女だからこそ死を選ぶように、カリヴァルドも彼であるからこそ、これほどまでに妹を必要とするのだから。
 
「ノウェルズ」
 
 片腕で抱き締めた身体の、歳月を経て一層痩せた痛ましさが胸に迫る。畜生の所業を為す間とて、感じ入る情動はあるのだ。心があるから愛情という不可視の概念に紛動され、敬愛の念に震えることが出来る。組み敷いた女が憎悪の眼差しでカリヴァルドを照らした。
 
「貴方を、決して赦しはしない」
 
 雲に隠れ、翳ってみせたところで必ずカリヴァルドを惹き付ける月の眷属、その満ちたる美しさ。
 
「どうぞ」
 
 カリヴァルドは満月に通じる後頭部を片手で掬いあげ、かつては手入れを欠かさなかった銀髪を五指で掴むと手網代わりに引く。女の紅玉の眼差しが諦観に濁らずして敵意に澄み、開花した憎悪が宿る。熱に溶けることなく冷やかに冴えたる瞳、獣に近しい縦長の瞳孔。憤怒の形相を鑑賞しながら、膿みきって血の交わりに熟し、体液を滴らせる妹の傷口に猛りを激しく突き立てる。腹の最深部を殴りつけ、しがみつくように戦慄く膣の甘美さを堪能する。
 臨界点を目指して熱が煮え立つ。吐き出す先を求めて本能が荒れ狂い、彼我の境界を束の間に喪い、原始的な熱狂が射精菅を駆け上る。子宮を持たず精子を貪るばかりの胎へと、乞われ続けた白濁液を思う様、浴びせかけた。

 ノウェルズが目を見開き、背を仰け反らせる。彼女の脚が見えざる手に引っ張られたかのように緊張し、足指までが痙攣する。
 吐精に一度、二度と跳ねる怒張に、収縮する膣襞がまとわりつく。残り汁を吸い上げて気の緩む隙を与えない。男性であり、体力もあるカリヴァルドはそう息を荒らげず、下肢も余力を十分に保っているが、彼の影に覆われた妹は虫の息だ。

「は…、は……っ、」

 

 ノウェルズは下腹に手を遣り、触れてはいるが腕の力を取り戻したか気づけているかどうか。息を荒げ、顔を赤くして目を見開いたまま、カリヴァルドを見ているでもなく、忘我の域であるかもしれない。
気付け代わりに、深い腰の一打で直接、腹の底を叩いてやる。染み出す愛液に精液の濁りはない。一滴残さず吸収されたのだ。
 
「上手に飲めたじゃないか。偉いぞ」
 
 妹の背を抱き寄せて身を起こす。膝に乗せてやると、蜜壷に嵌め込んだ杭が女の自重によって深部まで飲み込まれていく。ノウェルズが兄の胸に手をあてて距離を取ろうとするので、小さな尻を掴み、下から突き上げた。
 
「ひ、いぁっ」
 
 串刺しにされて、無力な小動物のような高い音で妹が鳴く。倒れないように背を支えたカリヴァルドの腕に、銀髪の滝が流れ込む。
 
「手弱女のような声も出せるのだな」
 
 精液の味わいを知ったばかりでありながら、強請り上手な肉は全体を駆使して幹から亀頭までを扱き抜き、雁首による連続的な刺激と殴打に潤滑油を溢れさせて狂喜する。
 熱で溶けそうな性的快楽が神経に染みるのを嫌ってか、ノウェルズが身を捩った。覚えたてのように拙い抵抗を見守る心地を、風切り音が断つ。
 そこまでの体力を取り戻せていないだろうに、ノウェルズは枕元の棚に置かれた花瓶の口に指を引っ掛け、カリヴァルドの側頭部目掛けて振りかぶったのだ。直撃する寸前、万が一にも妹を床に落としては受け身も取れまいという迷いから、カリヴァルドの判断は遅れた。花瓶は彼の耳の側で凄まじい音を炸裂させて、破片を散らす。前髪から顎にかけて血が伝い、衝撃の余韻に頭の中で大鐘を揺らすような痛みが響く。砕けた花瓶の本体が、重い音で転がった。
 
「抵抗する体力が戻って嬉しいよ。俺も甲斐があったというものだ」
 
 女を無理矢理に抱き寄せると、拒絶に筋を浮かせた首筋へと牙を突き立てる。吸血種は牙を用いず、望むこともない。だが、カリヴァルドは真珠色の牙を妹の肉に埋めた。
 この瞬間、二種の閃めきが彼に走った。第一に、牙を用いた血の啜り方。先端には小さな穴があり、妹の血液が自身の内腑へと染みていくのを実感する。太く、新しい血管と神経が体内に通ったかのようだ。
第二に、妹の中に埋めた屹立より根深いところ、種族的な意味の縛りを得たのだと、供血者の死を悟るに似た自然さで理解した。血の凝固は牙の作用により皮膚下で防がれ、滑らかにカリヴァルドの喉へと滑り込む。
 
「……、」
 
 はじめての吸血だ。加減を誤り、飲みすぎたと気付いて顔を離す。僅かな吸着を覚えて牙が抜けた。ノウェルズの白い首には穴が二つ空いており、外傷としてはそこまでだ。
 むしろ、カリヴァルドの頭部から流れ続けている流血の方がより酷く、肩を赤く湿らせている。
 吸血された影響か、妹は取り戻したばかりの威勢を欠いて、力無く俯いた。かといって、休ませてやる訳にはいかない。厚みのない胸部に手を這わせ、ささやかな乳房を揉みしだく。先端を指で摘むと、堪えんとするくぐもった悲鳴に続き、素直な嬌声がノウェルズの喉から転がり出る。
 カリヴァルドの流血を浴びて、ノウェルズの素肌に血痕が咲き乱れる。覚えたての快楽に免疫もないまま、女が立て続けに絶頂を迎えた。二度目の精液を獲得する前に総身を震わせ、爪先で敷布に皺を刻む。
律動に従い、垂直に伸びたノウェルズの長髪が揺れて、カリヴァルドの目を眩く刺す。左側で揺れていたはずの編み込みは解け、気付けば青いリボンが床に落ちていた。カリヴァルドの爪先が懐かしい青を踏んでいたが、彼にとっては腕のなかで喘ぐ女の吐息の熱さの方が、余程に重要だ。
 精液を得て徐々に自由を取り戻しつつあるノウェルズを敷布に転がし、今度は両腕を頭上に縫いとめて貫く。女の腰が六度目を数えて痙攣したのを受けて、カリヴァルドは結合部を確認した。逆流した精液が彼我の隙間から滲み出ている。ようやくか、と彼は息を吐いた。額の流血が止まった代わりに、彼の顎を汗が伝っていく。ベストをいつ脱いだか記憶になく、シャツにも熱気が籠って皺だらけだ。
 
「……おや。忠告してやったというのに、この子ときたら」
 
 情交に湿った前髪を、彼は掻き上げる。全身を体液で濡らしたノウェルズは、意識を失っていた。強引な繋がりで以て姦通した穴から、性器を引き抜く。
 久しぶりの苛烈な行為に、彼も疲弊していた。カリヴァルドは棚の上に置かれている水差しから洗面器に水を移すと、拝借したタオルを濡らして妹の裸身を拭う。彼女の首には吸血痕が二点と、首を絞めたときの痣のみで、他に外傷はない。蒼白かった肌には夜目にも仄かな血色が浮きあがり、いくらか健康体に見えた。清めた体を寝台に横たえさせて掛布で守り、足元の花瓶を適当に靴で端へ寄せる。ふらついた女が足裏に傷を作ってはいけないと思い直し、床を片付けてやってからその場を離れた。浴室を借りて残滓を流すことにしたのだ。
 集合住宅の三階でも容易に水を扱えるのは、ヴィルベリーツァ伯爵の功績である。降雪量が多いグライブにおいては雪解け水が水道管の温度を下げる。これが事故の原因となることが多いのだが、最適とされる分流式へ移行するための工事と開発とを伯爵が指揮し、上下水道の拡充に伴い公衆衛生を飛躍的に向上させた。民の暮らしはより豊かになり、疫病は未然に防がれ、現在は厨房と浴室、手洗いを安全に使える日常は民にとって欠かせざる生活基盤となっている。
 カリヴァルドは妹と共に伯爵の屋敷へと引き取ってもらう条件として宣誓なる儀式を行い、襲爵するまで彼の傍仕えとして長らく尽くした。朴訥な男であったが、民からの尊崇を集めるに値する好人物であったと振り返っても思う。
宣誓の儀式は主従関係を約束するものであるが、主と決定した相手に害意を抱くことは出来ず、また命じられれば自己を逆らえなくする自戒の呪いだ。吸血種のなかでも貴族の家系にのみ宣誓は継承され、忠義を身に現して体現できることが彼等と民とを分ける一種の差異であった。その主との契約が、ノウェルズを吸血した瞬間に断ち切れたことを、行為中に感じ取った覚えがある。供血者との死別より儚い、細い糸を不意に失った感覚は伯爵の方でも感知されたであろう。
 浴室から出たカリヴァルドは寝台の傍へと椅子を移し、ノウェルズの銀髪を指で梳いた。敷布に散る銀糸を束ねて三つ編みに纏め上げ、黙々と集中する。浴室で洗い、乾かしておいた青いリボンを側頭部で結んで仕上げとした。
 寝顔を眺めいると、延々と過ごして朝を迎えかねないと見切りをつけたカリヴァルドは、上着に袖を通して部屋を出る。額の傷に、階段を降りる振動と外気の冷たさが響き、痛みを通して妹を案じた。強制的であるが、新しく交わした血の契約が彼女の生を保障するであろう。夜明け前に急変すまいかと気を揉む自らを宥めながら、彼は帰路を辿った。
 夜を雲が流れ、風が囁く中、フリーレンのみが朝と夜との区別なく天を貫き存在している。やがて部屋が白み、宵闇が希釈された頃、ノウェルズ・クディッチは瞼を震わせた。室内は薄灰色に染まり、澄んだ寒さと静寂に満たされている。窓より差し伸べられた光の御手が、ノウェルズの投げ出した手に暖かく重なっていた。
 掛布を捲る。寝台の下を確認するも花瓶の破片は無い。顔をあげたなら、書斎机の上に転がった釦が目に留まる。襟を暴かれた際、行方知れずとなったはずの物だ。
着替えた覚えの無いネグリジェの裾を揺らし、彼女はひとり窓辺に立つ。寝台と窓を結ぶ僅かな距離のなんと短く、軽やかな足取りであったことか。
目覚めにつきものの倦怠感も、頭痛も、吐き気も、眩暈も、何もない。
開け放った窓から滑り込むのは、冷ややかな風。見慣れたはずの一切は、回復した五感によって鮮やかな感慨と共に映り、知らず彼女は息を飲む。最も無垢なる光が地平線より現れ、三階から望む風景を変えていく。劇の開幕を迎える様に。

「――朝陽」

 

 四肢に漲る活力を実感すれば罪悪感も追い付かない。
一夜にして齎されたものは、ノウェルズが遠く置き去りにし、忘れ去っていた本来の生命力、その全てであった。やがて、グライブに聳える全ての屋根は光を戴き、室内に設置された家具もその物の色を取り戻すであろう。

皆既蝕

8/朝陽、それから     

 ノウェルズの回復は、グレンツェ語研究の進捗としてカリヴァルドの耳に届いた。思うよりも、ずっと早く効果は表れたらしい。
 血の契約を結んだ以上、カリヴァルドは二週間以内に妹の血を得なくてはならないが、グレンツェ語研究が順調であるならば、フリーレン対策の報告を兼ねて顔を合わせる頻度も高まろう。
 通常、吸血種はヒト種の血液を専用の小瓶に収めて携帯し、料理に混ぜて摂取する。しかし妹という生き餌からの採取となれば、その場限りで備蓄は無い。つまり、女に精を与えると共に吸血してから二週間、それがカリヴァルドの寿命となる。
 彼は書斎机の引き出しに収めていた手紙を取り出すと、差出人のビンギス・ロートヒルデの誘いに応じることにした。相手がカッツェの不在時を指定し、息子には伏せたうえでの面会を要求したからだ。
 カッツェ・ロートヒルデの父、ビンギスは爵位を息子に譲り、現在は療養中の身である。同家を訪問したカリヴァルドは客間へと通され、ビンギスと向き合った。必然的にエヒトの死が話題に出るだろうとカリヴァルドは予測をたて、事実その通りとなった。
 肘掛け椅子に腰掛けたビンギスは、最盛期と比べると幾らか金髪が褪せてはいたが、タイを結びベストを着こんでいたこともあって、一見した限りでは憔悴を伺わせない。
 両者はエヒトを巡って多少白熱した部分もあったが、冷静さを欠くほどではなく、懇談程度の穏やかさを保ち続けた。カリヴァルドが辞するべく席を立とうとした、その瞬間までは。
 ビンギスが唐突に蒼ざめて呻き、胸を抑える。容態が急変したのだ。カリヴァルドは、咄嗟の判断によって椅子から崩れかけた患者を支える。差し伸べた片腕に身を預けたまま男は虚脱し、シンメルに酷似した香りが漂った。死臭だ。こうしてビンギスはあっけなく世を去った。
 グライブにはありがちな曇天の下、葬儀は粛々と行われた。生前のビンギスは多くの者から信頼を得ていた様で、墓地公園では啜り泣きが続く。棺が地中に埋められ、喪主の役割がひと区切りつくと、参列者達に背を向けてカッツェが持ち場を離れた。カリヴァルドは彼を追って、声をかける。

 

「カッツェ」

 

 振り向いたカッツェは、翡翠の双眸にカリヴァルドを映した途端、瞳を充血させた。カリヴァルドは素早く距離を詰めると、金髪を抱き寄せて自らの肩口に押し付け、抱擁で彼の涙を隠す。

 

「情けなくてごめん、僕もええ歳やねんけども」
「父君は立派な御方だった。皆が喪失感に耐えている」

 

 カッツェが笑おうと肩を揺らし、しくじって嗚咽に震えたことが、寄り添うことで確かに伝わる。腕のなかにいる青年の、カリヴァルドに対する友情が変わりないのは、ビンギスがロートヒルデとクディッチの禍根を妻子に秘めたまま亡くなったからだ。
 風の音が厳しく吹きすさぶ中を共に佇み、カッツェを慰撫していると、金髪の隙間から新調したての指輪が目につく。カリヴァルドは普段から手袋を着用していたが、この時には素手であったのだ。指輪を暖炉にくべ、妹を犯した夜から五日が過ぎていた。

 

「へへ……君、時間あらへんやろ。急がなあかんのちゃうん」

 

 カッツェが照れ笑いで誤魔化しながら身を離す。目元をハンカチで拭うと、カリヴァルドから視線を外し、遠き空に君臨する氷の大樹を見つめた。

 

「滅びと死の象徴か。こないして眺めとるぶんには、綺麗なんやけども」

 

 父の死による弱気が、フリーレンを通してカッツェを蝕んだかと危ぶんだが、カッツェの面持ちに影はない。

 

「母親も弟もおるし、僕が家族を守らんとね」

 

 空元気か本心からか、カッツェの笑顔に安堵する一方、何の保証もなく今後も家族が無事だという見通しを立てているカッツェは楽観的過ぎる。
 誰かがフリーレンの策を講じねばならないが、彼にとっての責任の範疇は家族であって、フリーレンの対策は自分以外の何者かに委ねている。彼を含めた民に見られる楽観性は、国政や公爵達が民からの信頼を得ている証左でもあろう。
 フリーレンが滅びの予兆であることは貴族間の、極めて狭い範囲に共有された機密情報であり、氷の大樹が何であるかを民衆は知らない。不気味で美しい巨影に怯えながらも見惚れる余裕が残っており、出現から二週間が過ぎ、三週目に近づく現在は、日常に溶けかかってさえいる。いや、フリーレンに齎される死よりも、実際のところ、民は移住にこそ拒絶反応を示すのではないだろうか。新天地で歯を食いしばって何十年も生きることに比べれば、未知の力によって、現在の暮らしと同胞をまとめて喪ってしまう方が具体性のある苦悩に煩わされず済んで、楽だ。このような短絡を民が起こさないようにすることもまた、カリヴァルド達が対策を練るべき要件である。だが、父を亡くしたばかりの青年に向けるべき意見ではない。

「二日は休んで、ご家族にできるだけのことをしてやるといい。お前が疲れた時には、俺のところに

おいで。今夜と明日の午前中までなら俺は屋敷で過ごす。猫にでもなった気分で、書斎の長椅子に転がっていればいいよ」
「あんがと。僕も君んちの書斎にある長椅子、好きやわ」

 

 カッツェと微笑みあうと、カリヴァルドは白馬を駆って墓地公園を後にした。
 彼が目指すのはクディッチ邸ではない。下草色の地平線の先で見通せる、小さな村。その集落から離れた位置に、温室を構えた一軒家が佇む。木々に囲まれた家屋は慎ましくも古びた外観をしており、家主の名をエリシャ・オルドブルレイアといった。
 カリヴァルドが馬を駆る間に雪が舞い始め、鞍を降りる頃には薄く積もっていた。
 鼻先を寄せて甘える馬の肌を叩いて宥めながら、門の柱に手綱を結びつける。関から続く足跡。どうやら、家主は温室へと向かったらしい。
 馬の傍を離れ、足跡を辿ってきたカリヴァルドに目を留めるや、温室の施錠を終えたエリシャが顔を歪めた。

 

「公爵さまじゃないの。何しにきたのかしらね」

 

 若草色の髪をした女で、頬が丸いせいか憎々しげな顔つきをして見せても、かなり幼い印象を与える。
 カリヴァルドはエリシャの挑発を微笑のみで受け流し、彼女の隣に立って温室を覗く。外観は多角形をしており、屋根は雪下ろしのための急勾配で尖っている。温室内部では鉢植えが壁を埋め、手入れのされた薬用植物達が整列し、緑の葉を艶やかに伸ばして健康を主張していた。
 エリシャ・オルドブルレイアは、元はリーベン公爵邸で暮らしていた公爵の養女だ。繊細なシンメルの栽培にも携わっていたので、植物への造詣が深い。製薬原料ともなる草花の栽培方法を心得ていた彼女は、趣味と実益の半々で温室を管理し、薬を売って生計を立てているのであった。

 

「すごいとかなんとか言ってよ。雪かきも全部私とカナエとでやってるんだから。偉いでしょうが」
「民家が密集しているわけではないから、ある程度は積雪が滑り落ちるままにしておけば良いでしょう。身の回りについては女中のひとりも雇えば済む」
「いいのよぉ。村の皆とはよくやってるし、薬の評判もいいし」

 

 不意にエリシャが背を向ける。雪が視界をまばらに過るなか、彼女の巻髪が肩で弾んだ。雪に枯れない葉の色をして。

 

「丁度パイも出来上がる頃だし、御馳走してあげてもよくてよ」

 

 振り返ったエリシャが屈託なく破顔したのち、横顔を晒す。玄関から騒音がしたからだ。扉を開け放って飛び出してきたのは、エリシャによく似た少女である。エリシャと比べて、より鮮やかな若葉色の髪は短く、衣服によっては少年とも見えただろう。彼女等は、この家で二人暮らしをしているのだった。

 

「輝滴を、カリヴァルドさん」

 

 喜悦を満面に湛えたカナエが、駆け寄る勢いもそのままにカリヴァルドの片腕に飛びつく。譬え全力でぶつかったところで、相手が踏みとどまって受け止めると期待しているからこその速度であり、実際にカリヴァルドは難なくカナエの突進を受け止めた。

 

「輝滴を、カナエ」

 

 輝滴を、とはグライブの日中の挨拶で、ハルモニの蜂蜜に由来する。

 

「本物だ。本物のカリヴァルドさんだ。何か月ぶりだろう。私、ずっと待ってたよ。会いたかった」
「久しいね、カナエ。少し背が伸びたかな」

 

 無邪気にはしゃぐ少女に、カリヴァルドは落ち着くようにと柔らかな制止をかけた。

 

「淑女はみだりにスカートの裾を蹴り上げないんだっけ。でも私は淑女じゃないから平気だもん」

 

 カリヴァルドの片腕に取り付いたまま、カナエが飛び跳ねた。雪によって踵が滑り、転び損ねるのを受け止めると、既に彼の挙動を予想しての無茶らしく、支えられたまま笑っている。困った少女だと思うが、ロートヒルデの葬儀で多少なりとも沈んだ心地が払拭されていくのをカリヴァルドは感じていた。
 エリシャ宅の内部は屋敷と異なり暖炉は一箇所きり、居間は家族の団欒も来客のもてなしも共通して使用するため間取りが広い。居間の中心には長方形の卓子と椅子が設置されており、屋内は薬草の青臭さと甘み混じりの香りに満ちている。
 天井からは束にされた薬草が逆さに吊るされ、乾燥した緑が壁際を覆う。使い古しのカップは土が盛られて鉢となり、小さな花が窓際に並んでいた。不揃いな点は多々あれど、工夫を楽しみながら飾り付けられた親しみある内装だ。
 貴族として育った共通の過去がありながら、カリヴァルドとエリシャとは美的感覚が全く異なる。彼は統一性の感じられない室内装飾を生理的に受け付けず、視覚的に雑多な内装が神経に障るのだ。しかし、この家の女主人はエリシャであるから、時折訪問する程度のカリヴァルドが口出しするのは不躾とし、長卓の椅子を引いて大人しく腰掛けた。
 木目の味わい深き卓子の上、黄金の艶を帯びたパイが鎮座している。平たい円形の表面から立ち上る湯気は、濃厚な蜜の気配を孕んで鼻腔に甘やかだ。
 三角形に切り分けた一片を皿へと移し、先細りした先端へナイフを宛がうと、表層の生地が軽やかな音を立てて割れ、断面が熱に曇る。フォークに圧縮された果肉が完熟の蜜を溢れさせ、金の雫が生地から皿へと滑り落ち、痕を残した。
 口腔に迎えたパイは出来たての熱と絡み合って輪郭を崩し、舌の上でとろける。豊潤なる一口を堪能したエリシャが頬を赤らめた。

 

「大したことないわね。普通のパイだわ」

 

 言動不一致も甚だしかったが、カリヴァルドは指摘を控える。パイを作った、いや正確にいうと作り直したのはエリシャではなくカリヴァルドだ。エリシャが御馳走するといって供したパイは生地が緩く、味見をするまでもなく彼は調理場に立った。それというのも、カリヴァルドの趣味は製菓作りであり、伯爵家で厄介になっていた頃は厨房の片隅を借りて調理に耽り、完成品を妹に捧げていたからだ。

 

「お母さん、美味しいっていいなよ。負けを認めなくちゃ」

 

 カリヴァルドの隣に座り、母を意地悪くカナエが追及する。

 

「あーあ、負けたわ。貴方はなんでもできるわねぇ」

 

 拘りも無くエリシャが認め、嬉し気に二口目を頬張ろうと口を開ける。対面のエリシャも、隣のカナエも、小粒の歯並びにはあるべき牙が無い。オルドブルレイアとは牙をもたぬ者が名乗る姓なのだ。

 

「カリヴァルドさんはお屋敷の従僕なんでしょう。家僕と主人は全然階級が違うってきいたよ」

 

 だしぬけにカナエが言い出した。
 カリヴァルドとエリシャの間では、彼はリーベン家の従僕で、リーベン公爵の指示に従ってエリシャの様子を見に来ているという嘘が頑なに守られている。

 

「私は屋敷流の態度で接しても構わないが、エリシャが好まない」
「ふふ、礼儀作法の話じゃないよ。お母さんと距離が近づいて、好きになったりしないのかなって」
「女性と親しくなったからといって恋い焦がれてしまうなら、リーベン公爵は私にこの役割を与えはしなかっただろう」
「そっかあ、安心した」

 

 カナエの笑顔が意味するところをカリヴァルドは否応なく察する。年頃を迎えた彼女は、どうやらカリヴァルドに懸想しているらしく、時には明け透けに過ぎる程、こうして思慕を香らせる。
 しかし、彼女の望みは叶わない。木の卓子を挟み、蜜の芳香を共有するエリシャとカリヴァルドは実質的な夫婦、内縁の妻といえた。その根拠こそがカナエであり、彼女はカリヴァルドとエリシャの血を引いている。
 牙の無い彼女らは、グライブでは凶兆であり、シンメルの弱体化を裏付ける存在だ。
 オルドブルレイアは老化が寿命が短く、加齢の速度はヒト種と同程度。犬歯がないので血を必要とせず、吸血種から生まれていながら、生態はヒト種そのものに観察された。
 カリヴァルドの財政状況的にエリシャとカナエをクディッチ家に住まわせることは容易であったが、エリシャは望まず、カリヴァルドとは一種の契約関係にあった。
 認知はしないが、金銭的援助は続ける。それがカリヴァルドの提示した条件であり、エリシャはこれを承諾してカナエを産んだ。夫婦は愛情によって結ばれた仲ではなく、正確にいうと夫婦でさえないのだが、種々の経緯が積み重なった結果、嘘を積み上げながらも、ひとまずの安定をみせている。
 カリヴァルドは、今後もエリシャと共謀してカナエに接し、オルドブルレイア家を自らの家庭と定めることは無い。
 調理場に立つほど親しい間柄でありながら、卓子のパイに一切手をつけず、ささやかな訪問を終えたカリヴァルドは席を立つ。
 オルドブルレイア家を出ていく彼を、カナエが追った。父とも知らずに、カナエは男との別れを惜しみ、馬に乗った彼の姿が見えなくなるまで見送るのだ。
 あの男は、とエリシャは思う。
 容姿だけは非常に優れているから、美貌と親切心にカナエが参ってしまうのは、思春期ならではの幻想として、あり得るのかもしれない。エリシャとて、カリヴァルドと出逢った当初は、彼に微笑みかけられただけで特別な存在になったかの如く錯覚したものだ。一児の母となったエリシャは、既にカリヴァルドへの幻想を喪っている。
 娘がカリヴァルドに向ける感情が思慕である以上、いつか娘は傷つく。近々予測される未来は案ずべきだが、エリシャがパイを味わいながらも男が席を立つのを今か今かとじれったく眺め、疎んじていた理由は他にあった。居間から寝室へ移ると、彼女は箪笥の扉を開く。縦長の収納箱に体を丸めて潜んでいたのは、女だ。

 

「……、ぁ」

 

 慄きに女が震える。頬を暗色の髪が掠り、身じろぐと背に流れた黒髪が揺れた。怯えにより伏せた睫毛は長く、涙の雫が光って儚さが際立つ。不吉なほどに似ていると、エリシャは女を凝視する。

 

「かり、ヴぁ……どうして」
「どうしてとは私が聞きたいわ、貴方……」

 

 エリシャは、女を収納箱に押し込めて娘とカリヴァルドから匿ったのだった。薄汚れた外套に身を包んだ女が事情を抱えているのは明らか、カナエを巻き込みたくない母心と、女の顔立ちによる焦りから咄嗟に隠してしまった。

 

「もしかして、ヴィーケ・クディッチ……?」

 

 保護欲を誘う仕草と男の堂々とした振舞いとはかけ離れていたけれど、面立ちそのものはカリヴァルドの生き写し。ヴィーケと確信される女の双眸は灰色だが、奥に淡い紫色の滲む瞳をしている。確か、そのように珍しい瞳をしていると、かつてカリヴァルドが話さなかっただろうか。
 エリシャの見分に晒されたヴィーケは、小動物の様に陰で身を縮め、緊張に喉を鳴らす。生きていたのかとの言葉を、エリシャもまた呑み込んだ。

朝陽

9/家族          

 カナエと別れてから、カリヴァルドはクディッチ邸へと戻った。書斎室の椅子に落ち着き、見慣れた視点から室内を眺めていると、先代当主として同じ部屋を使用していたエヒトの面影が薄く想起される。彼も同じ椅子に座り、同じ机を使い、公務をこなしてきた。全てのクディッチ家当主と同じく。
 死者についてはじめに喪うものは、声だという。ビンギスが亡くなる直前にカリヴァルドを呼び出した理由は、亡きエヒトの遺体から回収された犬歯を一目見たい、という素朴な望みであった。僅か数日前の出来事。ビンギスの肉声はカリヴァルドの耳に、まだ鮮明に残っている。

 

「私も加齢が進み、死を意識する様になった」

 

 ロートヒルデ家の客間にて、彼は言った。差し向かいとなった両者を分かつ長卓の上には、剣が横たえられている。カリヴァルドは剣を取り上げると、鞘を滑らせて刀身を検めた。血脂などは無く、よく手入れがなされている。この剣が最後に斬ったのは、ビンギスの脇腹。

 

「確かに当家の剣ですね。旧い、儀礼式典用の」

 

 エヒトが斃れ、カリヴァルドが屋敷を引き継ぐまでの空白期間において、ビンギスは遺体の傍から剣を持ち出し、保管し続けていたという。

 

「剣は象徴物でなく、生者を守護するために用いる。墓に持ち込むわけにはいかぬ故、返還すべきと考えてな」
「……生者ね」

 

 ビンギスが死者と過去とに囚われているから、自分を呼び出したのではないか。続く言葉は声にこそ出さなかったが、カリヴァルドの口元に笑みとなって浮き上がる。彼は侮蔑的であるほど慈悲深い顔付きとなるという屈折した特徴があったため、この時にもやけに柔らかな顔つきをした。
 カリヴァルドは剣を元の位置に戻すと、ビンギスを責めることなく小箱を取り出す。

 

「一目で結構とのことですから、お持ちしました」

 

 剣を境界線とした内側に箱を置き、蓋を開ける。敷き詰められた綿の上に載っているのは、犬歯であった。ビンギスが殺害し、カリヴァルドが看取った、エヒトの牙。ビンギスは箱を前に、震えたようだった。彼の中で大きな感情の動きがあったのかもしれない。

 

「お前も勘付いていようが、エヒトの死は前もった計画の上で為された」

 

 やや早口で、昂った気を紛らわさんとするかの様にビンギスが言う。この場において、相手の機微を気取る自らの鋭敏さはカリヴァルドを不快にさせた。

 

「弱腰のエヒトの剣を貴方が見切れなかったことからも、やりきれぬ選択だったとお察しします」

 

 剣の扱いでいえばビンギスは随一。エヒトが扱える刃物は食卓のナイフが限界であるから、打ち合うことさえ適わぬはず。カリヴァルド自身、剣技の心得があるからこそ気合で実力が覆えるとは思わない。死んだエヒトが奇跡を起こしたのはではなく、ビンギスに躊躇いがあったのだ。

 

「エヒトはお前たち兄妹の為に、牙を遺す必要があった」
「彼が私の父ではない、という事実を証明するために」

 

 牙を遺して何が判明するかといえば、性交渉の遍歴である。エヒトの牙を調べることで、彼は妻どころか誰とも関係したことのない、全く清い身であることが証明された。では、カリヴァルドの父は誰か。彼は、それを知っている。

 

「ヴィーケが第一子を授かった時には吸血種として生み、第二子の時には淫魔として生んだ。父親はどちらもアーベル・クディッチであるにも関わらず」

 

 生前のエヒトが牙を遺そうと思い立ったのは、彼が淫魔について調べていたからだ。エヒトなりに、ノウェルズを長生きさせようと苦心していたのだろう。エヒトは分岐の仕組みに気づいたが、裏付けとなる物証が不足していた。それで、犬歯と共に資料を遺し、託されたそれらは家令の手を渡ってカリヴァルドへと渡された。

 

「エヒトの遺した犬歯とヴィーケの状態を通し、胎児の分化を左右するのは、近親相姦に加え、母体の心理状態なのだと解明されました」

 

 公爵等は近親相姦を罪として淫魔を処分しているのだから、近親相姦により生まれた吸血種を野放しにしてきたとなれば大義名分を喪う。為政者である以上は、外面的であろうと如何なる政策も正義の名のもとに執行され、秩序を保たねばならない。でなければ、国は崩壊する。
 カリヴァルドは、自分がノウェルズとまったく同じ、近親相姦の末に生まれた存在と把握すると、分岐の事実をリーベンへの交渉材料とした。ノウェルズに市民権を認めるようにとリーベンに要求する代わりに、公爵の落ち度も分化の仕組みも公表せず、淫魔を殺し続ける理不尽を看過するとして。
 カリヴァルドとて、シンメルの追肥として淫魔を殺す必要性を認めている。グライブを運営し、種族性を維持するためには、どうしても淫魔を殺さねばならない。彼は、ここに妹だけを特別扱いするという卑劣の上塗りをしたのだ。こうして紫書官としての門戸がノウェルズに開かれた。

 

「畜生の血が流れているのが同じであっても、何の抑圧も無く生きていく者もいる」

 

 生まれた瞬間から、淫魔が社会に無理やり負わされる差別を一切受けない。カリヴァルドがそうだ。

 

「エヒトがしたことは無駄であり、妹も吸血種として生まれるべきであったと言いたいのか?」

 

 ビンギスの疑問は、母胎であるヴィーケの状態を指している。カリヴァルドを産んだ当初、ヴィーケの精神状態は酷く閉鎖的で、常識が欠如していた。クディッチの箱庭で飼われていた彼女を変えたのは、エヒトだ。

 

「エヒトがヴィーケに道徳心を与え、社会的常識を仕込んだことは重要です」

 

 近親相姦はいけない、家族で肌を重ねることはおかしい。外界と隔絶された温室育ちの女はエヒトによって道徳心を与えられ、兄への愛を疑問視し、腹の中の子供は彼女の戸惑いと苦痛を吸い上げて淫魔に分化したのである。
 母胎が相姦への不安や、否定的な感情を抱くと淫魔となるという仕組み。それならば、ヴィーケの精神が未成熟だったからこそ、カリヴァルドは吸血種の特性を備えているといえる。

 

「エヒトはお前と妹が生きることを願った。血の繋がりがなくとも、家族だったからだ」  
「承知しています。貴方が私を呼び出した主題が、他にあることもね」

 

 絆で結ばれていると肯定するビンギスの態度は、カリヴァルドの神経に障る。例え彼が、エヒト乃至クディッチに巻き込まれた側としても、だ。
 ビンギスが今更にカリヴァルドを呼び出した事実からして、彼はエヒトに友好的であり、長年に亘る悔恨を引き摺って来たのは明らか。殺人はビンギスの本位ではなく、悪はどこかと問うならば、近親姦を犯したクディッチに他ならない。
 理屈でビンギスを推し量る理性と、父の血を浴びた時の感情とが鬩ぎ合う。一方で、カリヴァルドが疑うのは、むしろエヒトだ。エヒトの死は完全な自己犠牲というのではなく、クディッチ家の環境や彼に任された重圧、不慣れな暮らしなどが蓄積し、疲弊させた末の決着ではなかったか。それならば、長く続くクディッチ家の生活から、ビンギスはエヒトを救ったことにはなるまいか。
 しかし、と走りかける思考を制止するのもまた、今際の際のエヒト自身の姿。血泡を吹いて事切れた彼のどこに、偽りがあったろう。エヒトは最期の力をカリヴァルドとノウェルズに捧げた。確かに、カリヴァルドは遺言を受け取ったのであるから。

 

「貴方はエヒトに致命傷を与え、私は絶命する彼の重みを受け止めた。同じ血に濡れた者同士、顔を合わせれば共通の思い出話が蘇るのは当然のこと。お付き合いしますよ」

 

 核心を突くと、ビンギスの眼差しが揺らぐ。動揺を隠そうとでもいうのか、彼は目元に手を遣り、影をつくった。
 ビンギスがカリヴァルドに求めるのは、打ち明け話なのだ。誰でもいいから、長年の苦悩を分かちあいたい、気を楽にしたいということなのだろう。男の感傷にどうして付き合ってやらねばならぬと思いもするが、苦しむ面を嘲笑したいとも思う。それで胸がすくはずもない、そうとわかっていながらも、どこかで憎い。

 

「エヒトを殺したのは俺の意思であったのか、リーベン公爵による宣誓の力を後押しとしたか判然としない。俺からエヒトを取り上げたのはクディッチであると憎悪を燃やす間は前者と信じていたが、俺の意思とはそれほど強固であったのかと迷う」

 

 カリヴァルドがヴィルベリーツァ伯爵に宣誓し、契約したように、ビンギスもまた、淫魔回収と相姦を犯したクディッチの始末を命じられる際に、司令塔であるリーベン公爵と契約を交わしていたらしい。任務完遂の為の、後押しであろう。

 

「安穏とした家庭に身を置き続ければ、憎悪も絆されましょう」

 

 ビンギスは沈痛な面持ちで俯き、膝の上で十指を絡めた。

 

「……俺は、エヒトの最期に関わりたかった」

 

 額に深く刻まれた皺が、縋るような眼差しが、彼の懊悩を言葉よりも強くカリヴァルドへと訴えかける。

 

「自分のしらない場所で、死んでほしくはなかったのだ」

 

 おそらくは、エヒトを殺そうと決めた瞬間よりビンギスの背負い続けた重荷が集約されたであろう一言は、図らずも槍に変じてカリヴァルドを貫いた。
 ビンギスが、兄妹の間に何が起こったかを知るはずもない。だが、カリヴァルドが妹を寝台に移し、自らの翳の内側で食い荒した瞬間の想いはビンギスの台詞に重なるのではないかと、疚しい衝撃と痺れのなかで理解が追い付く。
 ロートヒルデはエヒトを殺し、カリヴァルドはノウェルズを生かした。それは肉体に限った話で、精神という意味でなら、エヒトの意向に報いた彼と、背いたカリヴァルドとで対極に位置する。妹への仕打ちに悔いはないが、予想だにしない局面であったからだろう。良心が震えた。

 

「昔話は終わりにする。この先も、息子を裏切ってくれるな」

 

 まあ、と男が緊張を緩める。

 

「お前には、そんなことは出来んだろうよ。俺といつまでもこうして、秘密を守り続けたのだからな」

 

 気を取り直したビンギスの笑みは、彼に対するカリヴァルドの羨望と嫉妬を密かに煽った。
 家庭、家族。最小単位の箱庭。
 カリヴァルドがエリシャと関係したのは、ノウェルズの市民権奪還の際から続くリーベンとの微妙な力関係において、より優位となる為だ。
 リーベンはヒト種と同じだけの寿命しか持ち得ない養女を愛していたのか、娘がカリヴァルドへ向ける思慕が本物とわかると、エリシャが屋敷を出ることを許し、庶子を産むことさえ咎めなかった。全く外部の男と添い遂げるよりは、オルドブルレイアを観察しやすいという意味合いもあっただろう。
 カリヴァルドがエリシャを篭絡する前に、リーベンはノウェルズを近臣として侍らせて圧力をかけたのだから、やられた仕打ちをやり返したようなものだ。
 リーベンとエリシャの母子はカリヴァルドにとっての家族といえないが、カナエは違う。父親の義務を完全に放棄することがどうしても出来ず、中途半端な立ち位置で幼い少女を騙すうち、本物の愛情が根付いてしまった。
 アーベルが実父でありながら叔父としてカリヴァルドに接していた形と重なり、親子二世代に渡って皮肉なほどに似通う。
 内情はさておき、カリヴァルドがカナエを認知しないのは、ノウェルズを延命する日が来るかもしれないと予見していたことに尽きる。十五年前の離別時から、万が一の機会があれば、いつでも選択できるようにと動くうち、遂に現実と成したのだ。そして、カナエに父と名乗る道は永遠に閉ざされた。地位と権力があるからこそ、不祥事となり得る妹との姦通の余波に、カナエを巻き込むわけにはいかない。
 父親としての自分と兄としての自分を両天秤にかけ、カリヴァルドは後者を選んだ。熟考を重ね、逡巡を踏まえ、とうに覚悟を決めたこと。終いまで飲み込む腹積もりだが、ビンギスを前にすると、ロートヒルデ家の幸福な家庭像がちらついて堪らない。
 妻に愛され、息子に尊敬され、朝と夜とに家族が挨拶を交わす。そんな暮らしを終生続けた男が最後に見つめたのは、カリヴァルドだった。根拠もなく信頼を向け、カッツェを頼むと微笑を遺して逝った。
 ――死を意識する様になった。
 故に、抱えておくのも耐えがたくなった過去を打ち明け、死んでいき、勝手に楽になる。
 何をいう、と罵らないのは、それでは現実が動かないからだ。
 カリヴァルドは、作り変えたばかりの木製の指輪に触れる。この契約が、妹を生かす。世界に、彼女を縛り付けている。
 ――貴方方は愛に弱り、判断を誤る。
 妹の言葉は、一理ある。カリヴァルドにとっての誤算は、いつもこれだ。仇の息子とわかってカッツェを抱き寄せた時も、父と明かせないにも関わらずカナエに微笑みかけた時にも、ノウェルズの価値観を理解しながら、踏みにじる時にも。
 ふと彼の鼻先に蘇るシンメルの香りは、ビンギスの死臭かノウェルズの芳香か。
 定まる前に、鳥の鳴き声によってシンメルの気配が霧散する。響くのは高く細い、笛に似た声。鷲だ。
 曇天を背に、一羽の鷲が旋回していた。
 カリヴァルドは窓を開けると、猛禽用の手袋を嵌める。着地点を見つけた鷲は急降下し、両足で彼の腕を捉えた。
 行儀よく翼を畳む獣を指先で掻いて宥め、カリヴァルドは鷲の脚に結ばれた小筒を開いて紙片を取り出す。

 

「ドリス。蜂熊という鳥を知っているかな」

 

 侍女のドリスが、いいえと首を振る。侵入する冷気が卓上の書類を煽るのを気にしたのだろう、ドリスが窓を閉めた。グライブの白き街並みは、書斎室の幅広な窓を額として、美しき絵画と化す。

 

「この子の近縁種だよ」

 

 グライブの立法府は議会であり、白蜂から着想を得て政治体制の改革が行われてきた。
 蜂の巣は女王蜂の支配下で管理されていると思われがちだが、実態は異なる。一介の幼虫をいつ、どの機会に女王蜂として育てるか、全ては働き蜂が決めるのだ。
 働き蜂達による特別な養育を受けた幼虫が、女王の性質を付与されたに過ぎない。このような判断を下し得たのは誰であり、適切な判断がどうして可能なのか? この点は、まだ解明されていない。司令塔を持たずして高い社会性を備えた働き蜂に倣い、貴族達も共同体の主権は民にあるとし、自らは彼等の信任により為政者としての地位を預かっていると考える。
 グライブが蜂を旗印とするのであれば、隣国ペルニスイユは熊蜂なる鷹の名を冠した君主制国家だ。熊蜂とは蜂を主食とする猛禽で、彼等に攻撃された蜂は反撃の意欲を喪うのだという。
 片腕の鷲に、カリヴァルドは囁く。

 

「ペルニスイユからの使節がグライブを訪問するとの報せだ。まるで、図ったような時期じゃないか」

 

 空の覇者との異名を持つ鷲が羽毛を膨らませ、よく通る声で応じた。カリヴァルドは猛禽の従順さを眼差しで褒め讃えながら、片手に摘んだ紙片を燭台の火に舐めさせる。投げ出されたのは銀盆の上、紙片は瞬く間に灰と変じた。

家族

10/銀世界         

 オリヴェール・ナイアの実家には、特別な眼差しを受け続けた絵画が飾られていた。それは白い街並みを描いた一枚で、土地の名をグライブという。

 

「グライブはどこにあるの?」

 

 問うたのは幼き日のオリヴェールである。母は大層この絵画を気に入っており、我が子の小さな手を握りながら語ってくれたものだ。

 

「常冬の森にひっそりと抱かれた土地よ。ひとりふたりでは、決して辿りつけない」

 

 国家の力と騎士団の守護を得ずして踏破は適わぬと、語る声さえ柔らかだった。
 ペルニスイユ使節団の一員として闇深き針葉樹の森へ踏み込んだオリヴェールは、あの日のおとぎ話を目の当たりにせんとしていた。
 広がっていたはずの青空は木々と雲とに食い荒らされ、いつからか行く手は夜を疑う薄闇へと飲まれていた。吹雪によって視界が閉ざされつつある中、総勢十五名で編成されたペルスイユ使節団は急ぎ馬を駆り、雪を蹴散らして走ることを余儀なくされた。彼等の背後に迫るのは、狼の群れである。
 後方を追ってくる三頭の他、騎馬に鞭をくれて急ぐ一同を両挟みにして、二頭の狼が使節団と並走している。
 枝が重みに耐えかね、積もった雪が前方で落下した。手綱を操り、迂回することでオリヴェールは速度を落とさず走り抜けたが、狼の囲い込みにより最後尾に続く随員が隊列から切り離される。
 狼が馬に飛びついた瞬間、護衛騎士が随員を庇って落馬。護衛の任を果たした勇敢な騎士は、けれど雪の上に取り残された。すると、先頭を行く一騎が馬首を巡らせ、逆走を開始する。これが使節団の長、大使であった。

 

「オリヴェール・ナイア様」

 

 騎士の静止が飛ぶも、構わずにオリヴェールは引き返す。負傷者の眼前へと降り立ち、護身の剣を抜いて獣の群れと敵対する。
 使節団の構成は正使一名、副使と随員が各三名。残りは過酷な道中にて彼等を守護する護衛騎士と、オリヴェールの背中を驚愕の眼差しで凝視し、流血する負傷者一名。要たるべき大使が脚を止めてしまえば、随員と騎士は先へも進めず後へも退けない。とはいえ、オリヴェールの義侠心に満ちた行動は一同の結束を強めるに充分であった。
 騎士等は互いに目配せを交すと、オリヴェールと負傷者の元へ向かう。人命救助の意志によって縦に連なり、栗色の鬣を散らして疾駆する彼等を、不意に巨大な影が追い越す。
 振り仰いだ先を飛ぶのは、鷲。両翼を拡げた猛禽はオリヴェールと狼の対峙する地点へと一直線に滑り降り、威嚇の鳴き声を高くあげるや、大きな爪で踊りかかった。大型獣でさえ一撃で仕留めるという鷲の鋭い爪が、狼の鼻先を捉えて血飛沫を散らす。
 第二撃に備えて鷲が旋回すると、狼は鼻の肉を削がれて息を荒げながらも、臆さずして低く構える。だが仲間達が彼の傍を過ぎて撤退を促すと、金の瞳から緊張感を振り払い、群れの流れに加わり遠ざかった。勝算は薄いとみて撤退したのだろう、狼は知能が高く生存戦略に長けている。
 オリヴェールは背後に庇っていた騎士を振り返り、怪我の具合を確認せんと膝を折る。

 

「無傷というわけにはいかなかったようですね。傷ましいことを」

 

 第三者の低い声が、冷気に澄み切る空気を伝って耳に届く。顔をあげた先、救援に駆けつけた仲間達の向こう側。

 

「お迎えにあがりました」

 

 まずは傷の手当てをと続けたのは、黒馬の鞍に跨った丈夫である。緩やかに黒馬が歩を進め、背後にいくつかの影を引き連れてきた。彼が片腕をあげると、鷲が引き寄せられて翼を畳む。
 いつの間にか、雪は止んでいた。窮地を逃れて熱が引いた為か。絶え間ない冷風と足場の悪さで使節団を苛んだ森が鎮まり、肌を刺す寒さが厳かなものに変化して感じられる。傷を受けた騎士に寄り添う姿勢のまま、 オリヴェールは影を凝視した。常冬の森にひっそりと生き、雪と氷の加護を受けし者。

 

「……吸血種」
「如何にも。ペルニスイユ国使節団の皆様方」

 

 聴かせるつもりのない呟きさえも、彼らの聴覚は拾うらしい。声を張ったふうでもないのに、森によく通る声が応じた。

 

「クディッチ公爵。この洞窟を抜けるのですか?」

 

 土を掻いて栗毛の馬が戸惑うのを、馬上のオリヴェールが代弁して隣の男に問う。

 

「ええ。馬を宥めてあげてください」

 

 公爵に言われた通り、オリヴェールは馬の鬣を掻き、緊張を解さんと努めた。彼等の眼前には、洞窟が口を開けている。目線をあげると氷柱の鋭い切っ先が殺意の光を帯びて見えた。大きく発達しており、美しくもあるが不気味さを拭えない。

 

「氷塊が落下する危険性があります。傍を離れないように」

 

 ペルニスイユ使節団を迎えに出たのは、クディッチ公爵と彼の率いる兵士達であった。彼等は黒馬に跨り、一様に黒の外套に身を包んでいる。狼に襲われた馬は一時は混乱して逃げ出したのだが、森で彷徨う前に吸血種等が回収したらしい。黒馬の傍に混じり、吸血種等に誘導されるがまま、雪を踏み始めた。
 吸血種等は使節団の疲弊に配慮して、栗毛の馬から黒馬へとできる限りに荷物を移し、共に移動を続けている。
 先頭はクディッチ公爵。半歩先を進む彼の、幅広の肩を目端にオリヴェールも続き、洞窟の闇へと踏み込んだ。しばし全くと言っていいほどの闇に包まれて総毛立つも、馬の落着きがオリヴェールに伝わる。栗毛の従順なる馬は公爵の後を見失わずに導かれているらしい。
 どこから滲んでいるかも知れぬ蒼白い光が、足元の岩肌を浮き上がらせた。洞窟内部は天井が低い。暫く進むと圧迫感が失せ、天井が一気に遠ざかる。どうやら、開けた空洞に出たらしい。呼吸が幾らか楽になり、オリヴェールが顎を逸らすと、頭上を氷柱が埋めていた。水晶に似通う透明な剣先のすべてがオリヴェール達に差し向けられているのに、月光にも似た光のなかで振り仰いでいるせいか、子供のように見惚れてしまう。
 壮麗なる氷の森。氷の木々が生え揃う様を、逆さに見晴らすようだ。天地が逆転し、新しい世界を歩いている。横並びに群生する氷柱は、透明なるカーテンを引いたかに見紛う。仲間達によるものであろう、後方からもいくつかの感嘆が漏れ聞こえた。

 

「この光はどこから?」

 

 返答代わりか、公爵が片腕を横へと軽く滑らせる。すると、示し合わせたように周囲を輝かせていた光が変化した。青から橙へと、鮮やかなる色の漣が氷柱に打ち寄せ、一斉に染まりゆく様にオリヴェールは面食らう。

 

「仕掛けはあちらに御座います」

 

 鷲がひと鳴きすると、公爵の肩から鞍へと飛び移る。角度的に彼の表情は伺えないが、先程の仕草は鳥への指示であったらしい。公爵の声音は鷲への配慮を引き摺って優しく、遅れて片手が光源を指す。オリヴェールは一瞬でもからかわれたものと受け取った己を恥じ、暗闇が有難くさえ感じられた。壁を見遣ると、内部に燭台を抱えた窪みが点々と続いている。

 

「行きがけに火を灯しておきました。凍礼祭の期間中には炎が青く変色します。これは少々、時期外れではありますが」

 

 燭台の連なりに従うと、天井が再び低く迫り、一本道へと収束していく。出口の白い穴を抜け出ると、両脇に巨大な氷塊が転がっていた。背後の狼より、入口の氷柱より、殺傷能力だけなら確実な巨大さだ。年中冷え、雪の溶けきらぬ地域だからこそであろう。暗所からの開放感に包まれると共に、再びの森を進んでいく。足元は石肌から雪へ、更に土へと柔らかさを増していった。
 四方には溶けきらぬ雪が残っていて、白い肌で弱々しい陽の力を受け取り、銀の粒子に分解して煌めいている。
 小枝の折れる音がした。目線の先で、白い毛並みに、染みひとつない見事な白鹿が姿を現す。
 角の生えているところを見るに雄であろうか。雪を掘り返すために雌でも角の生える種があると聞く。華奢な四肢をした鹿はオリヴェールを一瞥すると、俊敏な動きで駆け去った。
 この地に宿る白は、雪にしろ鹿にしろ、オリヴェールが自然界に見出すものより光をより蓄えて感じられる。
 木々が減るにつれ、前方には視界一面に続く白い壁が見えてきた。城壁のように頑丈な造りで、正面には出入り口であろうアーチ状の門は両開きの状態だ。壁と同じく扉も白く、両脇に控えた門番だけが黒の外套を着こんでいる。型は違えども、吸血種達は黒の衣装を基本としているらしい。
 一同が蹄鉄の音を緩やかに重ねてグライブの門を通過する間際、扉の左右に控えた門番が低頭で礼を示す。薄い影を経由して再び光の中へと踏み込むと、見えざる冷気のヴェールのようなものを潜り抜けた気がした。肌で感ずるところでは、雪の降る森よりも底冷えし、微風は乾いている。
 使節団としての使命を帯びていることを忘れはしないが、それを以てして抑えきれぬ高揚がオリヴェールの胸に湧く。かじかむ寒さに負けない熱が、たかが心の持ちようだけで指先までに行き渡り、熱さと寒さの区別がつかない。グライブは本当にあったのだよと指さし、亡き母へと笑いかけることが出来たなら。叶わないと知りながら、脳裏でだけ夢想する。
 絵画に重なる白で統一された街並み。続いていく石畳の緩い傾斜。地上は銀の彩をまぶされ、淡く輝いている。一面の白をして銀世界と呼ぶのであれば、まさに此処だ。

 

「嗚呼、」

 

 圧し殺さんとした感動が、吐息を装って小さく漏れた。見知らぬ土地、真新しい感動に打ち震えていながら、不思議な郷愁がある。思い出と異なるのは、曇天を裂いて異様な何かがグライブの街並みへと伸びていることだ。オリヴェールの驚きと沈黙に、隣のクディッチ公爵が答える。

 

「曇天を根とし、滅びを象徴する氷の樹。我々はフリーレンと呼んでいます」

 

 遥かに遠き巨大な樹は、白く眩い。まるで――世界に走る亀裂のように。

銀世界
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