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寸劇

1/寸劇          

 卓子の上、半円状の菓子がしんと鎮座している。肌理の細かなクリームに銀の粒が散りばめられ、枝葉型の焼き菓子が外周を取り囲む。テーブルクロスと共に白で統一された、美しい菓子だ。

 これを前にした女は、椅子に浅く腰掛けて静止していた。彼女の側で湯気が立ち上る。傾けられたティーポット、飲み口の薄く華奢なカップに琥珀が注がれ、満ちゆく水面が光のあやを遊ばせる。

 ささやかなる茶器の擦過音、娘の手前にカップとソーサーを置くのは男の手だ。彼は執事ではない。銀の装飾具が煌めく、膝丈の黒いジャケットを着て、むしろ賓客としての正装を整えていた。

 暖炉傍の円卓を基点として茶の芳香が室内を漂う。潔癖に白い壁と天井、豪奢な家具に囲まれ、起毛の絨毯の上で呼吸をするのはふたりきり。男の優雅な挙措と彫像のように時を止めた女との取り合わせは、一室を舞台とし、劇の一幕を演じているかのようである。凍ったままでいる女の対面に男が着席した。

 

「君の言語学者としての功績は、私も聞き及んでいる」

 

 彼の名をカリヴァルド・クディッチという。青年として長じきった齢であり、面立ちは彫りが深く精悍。前髪は頬に触れる長さ。毛先は暖炉の光を通し、暗色から夜明けに透ける。彼は眼差しの厳しさを微笑で補い、生粋の貴族としての風格を纏う。

 本来ならば、軽食の席を整えるべきは給仕を担う家僕の仕事であるが、彼等はカリヴァルドの指示により室外にて待機していた。

 

「失礼ながら」

 

 娘が口を開く。

 

「私ではクディッチ公爵の無聊をお慰め出来ません。何卒ご寛恕頂き、別室に居られる伯爵か公爵をお呼び致します」

 

 女の肩幅は狭く小柄だが、理知的な面持ち、沈着さからして子供でないのは明らか。純白のドレスを纏い、首元をレースが覆っている。美しく伸びた背筋を飾るのは銀髪。水が如くの艶が垂直に流れ落ち、時ならぬ月光を冴え冴えと背負う。

 

「ノウェルズ・クディッチ紫書官。私達は種族存亡の危機を前にし、責任を負う立場にある。足並みを揃えねばならない」

「異存ありません、公爵。しかし、この後に合議を控えた今、我々が個別に親睦を深める理由が御座いますか」

 

 菓子を挟んで剣呑な雰囲気を保つ彼等は、実の兄妹である。親代わりであったカリヴァルドの手元をノウェルズが離れて十五年、当時は自立せんとする妹の意思を汲み取り穏便な別れを済ませはしたが、実質上の絶縁状態にあった。この度リーベン公爵により招集され、同公爵邸で再会。後に控えた合議の前に少し話そうとカリヴァルドが誘いかけ、卓に着いたのである。

 

「私とて地位で君を拘束しているわけではない、茶を飲み終えたなら退室なさい」

 

 退室の単語が効いたか、ノウェルズがカップの持ち手に指を添える。ソーサーを離れた瞬間を計らい、カリヴァルドはテーブルクロスの影で彼女の靴を軽く蹴とばした。振動を受けて茶が波立ったものの、ノウェルズは上手く均衡を保ち、中身を零さずに堪えきる。

「……お戯れを」

「失礼、お気になさらず」

 兄は紫水晶、妹は紅玉の嵌った瞳に眼光も鋭く互いを写し、牽制し合う。

 

「グレンツェ語。旧き時代の忘れ去られた言語。話者はなく、遺された史料も五枚の石版のみ。解析されれば我々の

 起源すら紐解くという。起源に過去と……クディッチを離れ、系譜を無視する君にしては面白い学問を選んだね」

 

「言語学が前提とするのは時代であり社会であり、敢えて私と貴方という狭い単位に紐付けた理由は尋ねずにおきましょう」

 一見して変調はないかに見える女の、いわば雰囲気から敵意の高まりを悟ったカリヴァルドは、妹に対する悪癖を取り戻して調子づく。

 

「中央図書館にグレンツェ語に特化した同研究所が併設されて約十年。その点からすると君の研究はまだ新しい。私が言うと皮肉に聞こえたかな。そう怒らないで……」

 無邪気ともいえる横柄さが態度に現れ、作り物ではない微笑に彼の美貌が輝く。

「目をかけて頂き恐縮ではありますが、クディッチ公爵に申し上げることは何もありません。リーベン公爵の招集を受けて赴いた次第、職務を果たすのみ」

 

 図書館とは各地に点在し、種々の公的手続きを担う複合施設だ。職員は全てが司書として統括されるが、彼等の仕事は蔵書を離れて多岐に渡り、一部は歴史家としての側面を担う。この性格が特に強い者を司書の一等、紫書官と呼ぶ。紫書官は首都に置かれた中央図書館にのみ在籍し、ノウェルズの片腕を縛る腕章は、その証。 

 

「寂しいことを言ってくれるな、ノウェルズ。ともあれ、十五年も手紙の一通さえ寄越さず、元気そうで何よりだ」

 

 カリヴァルドは満足していた。妹が舌戦に応じる度、久しく血の通っていなかった精神に安堵と懐かしさが流れ込んでいく。

「このお茶を飲み終えるまでならば、思い出話にもお応えします」

 表面的な対立と緊張を保ちながらも、兄妹の発声は詩を誦する様に美しい。この響きこそは、彼らが幼年期を共にしたことの名残。カリヴァルドが貴族社会の教養とされる全てをノウェルズに与え、教育したのだ。唇の開閉度から、茶器を傾ける所作に伴う、指先の一本に至るまで。

「再会の日が口喧嘩で終わるのは私も悔しい。食べろとは言わない。せめて、スムスの紐を解いてくれないか」

 カリヴァルドが小箱を取り出す。収められていたのは、鹿の形をした砂糖菓子。職人技の光る立体的な作りで、赤い紐が角に結ばれている。

 兄妹の間に置かれた菓子をスムスといい、贈り主が白鹿を立て、受け取り手は紐を解く。紐が解けても鹿が立ったままであれば充実した一年を過ごせる、そうした願掛けが宿っていた。カリヴァルドは専用のはさみで箱から鹿を摘みだすと、雪山の頂点に優しく立たせる。

「どうぞ」

 兄の促しを受けたノウェルズが、仄かな焦りと緊張に強張る。食べなくてもいい、というカリヴァルドの譲歩を受け、尚も固辞すれば理由を勘ぐられると踏んだのか、彼女はゆっくりと腕をあげる。しかし手が震えてしまい、余計な力が加わって角が折れた。

 甘い雪原に鹿が倒れる。角の欠片と共に落ちた赤色の紐が嫌に映え、覇者から一転、狩られた獲物の様に呆気ない。ノウェルズが肘を引くより早く、その手を捉えて指先を握りこむ。

 

「冷えたままだ」

 

 熱い茶器に触れ、暖炉前に腰掛けていながら、ノウェルズの末端は氷の温度で小さく痙攣していた。疑念が確信に固まる。妹は病身なのだ。

「この後で体調が悪化したら、隠さずに申し出るように。……いいね?」

「はい」

 痩せ我慢を看破されて悔しかったのだろう。頷くノウェルズの顔色は、病んだ色に儚く透けていた。僅かな仕草で心理状態を汲めるほど理解していながら、再会の喜びを示しあえない。唯一無二の家族でありながら、見知らぬ相手の様に振る舞っている。

 

「それでいい」

 

 兄妹といえども、彼我における価値観の相違に橋を渡すことは難しい。カリヴァルドは、その差異を認めているつもりだ。彼が触れても熱が伝わらない、この手の凍る在り方を。

 ふたりを隔てるのは卓子ひとつ、腕を伸ばしあってようやく届く理性の距離。だから、カリヴァルドは手を放す。知見を広めた妹に、過去の面影を探すのは無為なこと。彼女の成長を認め、自由にしてやることが兄としての餞であり、頼られればいつでも手を差し伸べんと心に秘めるのが家族だ。それが正しいと、まだ願う心がある。

「妹の顔を見ると、どうしても可愛い。そう思う私の感情に、少しばかり付き合ってもらっただけだよ」

 いずれにせよ、茶会は終わりだ。

「行きなさい」

 十五年前にも妹に向けた台詞と重なって、寂しい感慨にカリヴァルドは苦笑する。彼の口元に覗くのは、特別に発達した犬歯。

 真珠色の牙を備えた生き物……吸血種とは、グライブなる地域に住まう種族を指す。牙で獲物を穿ち、血を勝ち得る。そうした野蛮な行為が行われたのは遥かな昔のこと。彼等は高い壁を築いて居住地グライブを囲み、独自の文化を築いた。ヒト種と共に調印した友好条約の下、彼等の厚意により血液供給の援助を受け続けて暮らし、現在に至る。

 共生関係を成立させたはずの両種族における均衡を侵すか否かが、この後に控えた議題だ。カリヴァルドもまた公爵の一角、大局を決するにあたり背負うべき責務がある。

 「ありがとうございます、御兄様」

 懐かしい呼び方にカリヴァルドが瞠目した一瞬を突き、宙で下がりきらずにいた兄の手をノウェルズが握る。握手の形で力が籠り、離れた。

 意思を通じ合わせたかに思われたのも束の間。椅子を離れたノウェルズが身を折り、口元を抑える。乾いた咳をハンカチーフで殺し、失礼と詫びる横顔に銀髪が流れて表情を隠す。

 吸血種は血臭を嗅ぎわける故、喀血は確かだろう。指摘は酷と考え、知らぬ振りを通すことにした兄の傍を銀髪の軌跡を引いて妹が過ぎた。扉の開閉音、規則正しい靴音が遠ざかる。

 卓子に鎮座するスムスは雪の降る、寒々しきグライブを象徴する菓子である。暖炉の温もりはノウェルズには届かなかったが、白さを保つスムスを少しずつ蝕み、いずれは形を崩してしまうだろう。妹も、同胞も、共に死期が近い。決断を下すべき刻限が迫っている。

2/合議          

 柱時計が午後零時を指し、鐘の音が地を這う低さで鳴り響く。
 革張りの肘掛け椅子、職人の手になる家具と調度品の数々。壁の柱は深みのある木肌に蜜が如くの艶を流し、長椅子や卓子の脚でさえ経年の光沢を走らせる。
 全ては輝くシャンデリアの下。計算尽くしの設計、配置の織り成す美しさによって贅を凝らされた談話室は、入口から奥までを見通せる長方形型の造りをしている。塵ひとつなく整えられた絨毯に乗るのは、暖炉から漏れる光と、これを囲む五名の影。
 火が爆ぜた。
 暖炉の傍、熱源から近い順にリーベン、キルベンス、少し離れた位置にヴィルベリーツァ、クディッチと国政を司る為政者が並ぶ。向き合う四脚の椅子が形成する正方形、これを外れてノウェルズが待機していた。
  
「一四日前から出現したグライブの異常について、クディッチ紫書官による解説を経て、種族性管理の観点から今後の対策と方針を決定すべく合議を開始致します」
 
 白髪を結わえた気品ある老女が口火を切る。彼女はこの屋敷の主、グライブにおける実質上の最高権威、サラ・リーベン公爵であった。
  
「クディッチ紫書官、解説を」
  
 リーベンが、老いのために痩せた片手を上げる。指示を受けたノウェルズは窓辺へ向かい、家僕が厚いカーテンが引き、室内に外光を招き入れた。
  
「皆様、ご覧下さい」
  
 窓を隔てた先に広がるのは、白で統一されたグライブの街並み。雪深い地であるが為、注ぐ陽射しの弱さを補うべく制定された景観条例に従い、建築物はどれもが白い外壁で築かれる。反射光によって全体を仄かに輝かせる街は潔癖に美しく、民の誇りとして愛されていた。
 その頭上、垂れこめたる曇天を根として、逆さまの大樹が巨影を浮かびあがらせている。絡み合う枝は微々たる速度で伸び続け、その異容さを遠目から観察するには、逆さの樹とも、氷の血管とも見えるのだった。
  
「解読中の石版には、件の現象と思しき記述が遺されていました。御承知のとおり、グレンツェ語を発すれば凍気が猛り、何が起こるかしれません。ですから、ここでは翻訳を用いることとし、氷の大樹をフリーレンと仮称します」
  
 グライブでは時間帯や気候の変化によって帯状の冷気が生じ、これを凍気と呼ぶ。自然現象の一部であり、凍気の近くでグレンツェ語を発声すると地より氷の棘が生えれば巨大な氷塊が落下するなど、無差別で危険な結果となる。その為、グレンツェ語の取り扱いは慎重を要する。
 曇天の下で暮らす吸血種達は、これまで冷気、凍気の起こす様々な不可思議と付き合って生きてきた。神妙な沈黙のみが、ノウェルズに先を促す。
  
「あの枝が地に到達すれば、グライブの全てが瞬時に凍てつく。全吸血種の死です」
  
 グライブの余命宣告までは、公爵達も事前に理解している。この合議の主題は、対策と方針の決定。

「滅びの期限は二年。通常なら民を国外に避難させるべきですが、如何でしょう。隣国への移送を」 
  
 ノウェルズによる細やかな補足を聞き終えてのち、沈黙を破ったのはカリヴァルドだ。
 石版の解読はまだ完了しておらず、数ヶ月は必要とノウェルズは話した。公爵達から質問があるまでは待機として、彼女は席に戻っている。
  
「隣国のヒト種との交渉が決裂した場合は?」
「淫魔は我々の交渉を有利に進める一要因となりましょう」
  
 吸血種の身体能力はヒト種を遥かに上回る。グライブを囲む外壁が築かれる以前、吸血種がまだヒト種と交わって暮らしていた時期に戦が起こり、ヒト種の盟友として吸血種もまた戦列に加わった。その時に齎した圧倒的な勝利は、現在もヒト種の地を他種族の侵略から守る畏怖の防壁として機能している。ヒト種は吸血種の加護を帯びている、と。
 しかし血と死に疲弊した吸血種は、壁を築くとグライブに引きこもった。以後はヒト種との関わり方を変えて、供血に際して接触するのみ、国交は長らく絶えている。こうした吸血種の繊細さを、淫魔は補えるとカリヴァルドは言うのだ。  
 淫魔とは吸血種の亜種である。吸血種以上に高い耐久性を備えており、一世代限りで生殖能力は無い。淫魔は強力な戦力として期待できるが、グライブの中でも長年に渡って秘された存在であり、ようやく社会の明るみに出たばかり。
  

「吸血種ならば被害を抑えるでしょうが、淫魔に実戦の経験はありません」
「リーベンの懸念は重要です。しかし、最悪を防ぎ、最善を為す、それが種族性管理を担う我々の職責」

 

 カリヴァルドは続ける。

 

「両国の障壁となるのは言葉の壁ですが、リーベンの教育方針により、一定の教育を受けたものは母語の他、通商語を話せます」

 リーベンが反論するか否かというところを不意の物音が遮る。一同が見遣ると、ノウェルズが姿勢を傾がせ、鼻から血を流していた。続く喀血。顎から下を血染めにしつつ、直立に背を正した女は、皆の視線を窓へと誘導する。
   
「フリーレンに変事あり」
  
 彼女の顎を、拭われぬままに鮮血が滴り落ちる。
  
「直下の隔離域に調査と負傷者の確認を。リーベン公、」
  
 告げた女は次こそ床に倒れ伏し、絨毯に散った銀髪が波紋を描く。窓硝子を隔てた先では、フリーレンの巨大な枝の末端から光の鱗粉が舞い落ちていく。枝が砕け、陽を浴びた欠片が反射に煌めき、公爵邸にまで届いたのだ。
  
「クディッチからも馬車を出します。伝令を」
  
 事態を理解したカリヴァルドが席を立ち、リーベンが首肯で応じる。合議で反発し合った両者は、意見が一致するや迅速な連携を見せた。 
 公爵達の指示を受けた家僕の足音が廊下に慌しく重なり合うなか、意識を無くして血を流す女を拾い上げる腕があった。
  
「よくぞ気づいてくれました、クディッチ紫書官。もう大丈夫ですよ」
  
 ノウェルズを抱き起こしたのは、キルベンス公爵だ。彼の場合、老いによる肌の乾燥は笑い皺として目元に暖かく刻まれており、リーベン、ヴィルベリーツァに較べて柔らかな印象を付与していた。
 医師でもあるキルベンスが患者を横抱きにして談話室を後にする一方、階下ではリーベン公爵邸の家僕に見送られて、カリヴァルドが玄関口に立ったところだ。足元は積雪に白く霞み、灰の空より降り注ぐ雪は雹へと硬度を増していた。
 彼が上向くと、額に触れる直前で氷が自ら砕け散る。グライブに降る雹は大小に選らず、吸血種を傷付けることはない。
 曇天より生まれ、吸血種の額で自滅していく雹。散り際に開花する氷の華はカリヴァルドの頭上で生死を繰り返し、雪の静寂の中、澄んだ音を立てて絶命の余韻を引く。
 彼は睫毛に乗った飛沫を瞬きで落とすと、軽く顔を拭った。革手袋を嵌めた手の暗闇に浮き上がる、倒れた妹の姿。気を逸らすべく、彼は近場に視線を投げる。全くの偶然ではあるが、雪景色に大気の揺らぎを見た。彼は片手をあげることで、見送りに出ていた家僕達を数歩下がらせる。

 

「キルベンス公爵とクディッチ紫書官の補佐に向かいなさい」
  
 玄関口の上部に連なっていた氷柱の牙が罅割れ、鋭い先端がカリヴァルドと家僕の間に落下する。
 脆くなった氷柱に凍気が触れたが為だろう。凍気はいわば、冷気に在って混じりきらない、とりわけ強い寒気だ。これがフリーレンにどう影響するか、まだ誰も知らない。転がった氷が映す風景は透明に歪み、カリヴァルドの眼前を吐息が白く濁らせる。
 地上との気温差の為に不思議な雹が降り注ぎ、普段に比べて寒さが和らぐのはおよそ二週間。この頃になると、凍礼祭と呼ばれる祭りが毎年開催される。丁度、フリーレンの出現と奇妙な符号をみせていた。

合議

3/淫魔          

 カリヴァルドが馬車に乗り込み、遠ざかりゆく車輪の響きが届いたか、リーベン邸内に横たえられたノウェルズが瞼を震わせる。寝台に肘を立てて半身を起こすと、視野の端に控えていた女中が介助しようと肩に触れた。

 

「結構です」

 

 ノウェルズは生来の体質から身体的接触を嫌う。介添えを拒絶された客間女中は背筋を正すも、眼差しは変わらずに優しい。

 

「承知いたしました。クディッチ様のリボンはこちらに」

 

 女中の白い手が枕元を指し、畳まれたリボンに気づいたノウェルズは薄い胸を起伏させる。安堵したのだ。
  
「宜しければ結ばせて頂きますが」

 

 控えめな申し出。喀血で汚された絨毯の染みを誰が片付けるかといえば、彼女達なのだ。

 

「お願いします」

 

 思い直したノウェルズに女中はスカートの裾を摘んで礼を返し、三つ編みを整える作業に取り掛かった。
 女中の方では銀髪に触れることは初めてであり、実のところはやや緊張していた。銀の髪は皮膚のうえを滑り、逃れ、水が編めないのと同じで意図せず零れる。手古摺るあまりに熱中する女中の側を、白い点が横切っていく。
 山形の軌跡を描いて飛ぶのは白い蜂、ハルモニだ。白く豊かな襟巻きで膨らんだ姿は、空飛ぶ毛玉の様である。ハルモニは尻だけが黒く、艶と尖りを帯びているが針はない。
 これに気付いたノウェルズが赤い瞳で行方を追うと、小さな蜂は宙を泳いだ先で白衣の背にしがみつく。キルベンスが折よく持ち出していた往診鞄を閉じたところであり、医師としての深刻な面持ちで振り返った。
  
「質問がある。私生活に踏み込むが構わないかね」
  
 ノウェルズが頷くと、彼は当たり障りない質問を経て本題へと移る。

 

「貴女は純潔かね」
「はい」
「前提の確認をしよう。淫魔とは牙を持たず、血ではなく精液を糧に生きる」
  
 吸血種が二親等内で近親相姦を侵すと、淫魔が生まれる。必ず赤い瞳を備え、銀と赤を発色しない吸血種の中では目立つうえ、銀髪は染料を受け付けない。
 成長過程において、この種には判定期という時期がある。吸血種でいうところの第二次性徴に等しく、体液、及び精液を得るに相応しい相手を選び出す時期なのだが、これは恋に似ている。
 愛した唯ひとりに抱かれれば三桁を生きる吸血種と同等の年数を生きるが、判定期を超えて交接が無ければ三十年程度で息絶える。ノウェルズは純潔のまま判定期を過ぎており、既に寿命を迎えていた。
  
「明日に死んでもおかしくはない状態だ。性質を了解済の衰弱かな」
「はい。私の死後に支障のない様、紫書官の引き継ぎは整えてあります」
「そうか。私は白蜂、貴女はグレンツェ語。専門は異なれども、同じ研究職という点で共通する」
  
 日向のような柔らかさで親しげに微笑み、キルベンスは寝台の側に肘掛椅子を寄せて腰掛けた。一旦は離れたハルモニが、彼の片眼鏡の淵に止まる。虫が視界を遮っても、キルベンスは金の瞳をレンズ越しに細めるばかり。
  
「クディッチ紫書官。僕は貴女の覚悟と功績を尊敬します。停滞していたグレンツェ語の解析を貴女が進めた」
  
 話者がなく、史料となり得るのは五枚の石版のみという厳しい条件のなか、ノウェルズは言語学者に匙を投げられて久しいこれに辛抱強く取り組んだ末に、グレンツェ語と分類した。
 言語の歴史に生じた音変化、形態変化を比較、類推し、研究の一環として発話を試みた途端、凍気が猛り、巨大な氷塊が宙で凝固し、飛来した。視認不可とされる凍気とグレンツェ語の音素は密接な関わりを持ち、グレンツェ語研究の深度が一定に達すると研究者は必然的に命の危険に晒される。
 過去の学者が研究から手を引く理由の一端を理解したノウェルズは、凍気の猛り――凍障を以て、グレンツェ語の歴史的価値と他分野への影響とを周囲に説き、研究所の開設が実現したのである。
  
「グレンツェ語研究に貢献できたことは私の誇りです」
「なればこそ、亡くすに惜しい。貴女には是非、恋をして欲しかった」
  
 心から惜しむ様子で、キルベンスが無念そうに続ける。
  
「最近になって、追肥となる淫魔にも質の違いがあると判明しました。貴女が充分に愛された淫魔であったならば、一体の死体でシンメルを回復させることが出来たかもしれない。花園を維持すべく、大量の淫魔を殺す手間も省ける」
  
 キルベンスの言うシンメルとは、リーベン公爵邸のみで栽培される特別な花の名である。この屋敷は中央に庭園を擁し、シンメルの花園を囲う形で建てられた要塞だ。
 シンメルの唯一の送粉者が白蜂であり、白蜂が生成する化合物を血液に混ぜることで、吸血種達はヒト種より供血された血の長期保存を可能としている。
 吸血種と根源的に深く結びついているシンメルは衰弱傾向にあり、回復させるための追肥となり得るのが淫魔の遺骸であった。淫魔を殺し、遺骸を加工し、花園に散布する。
 淫魔は一世代限りであるため吸血種の交配相手とはならず、淫魔の数が増えると吸血種は衰退するので無闇に相姦を繰り返すわけにはいかない。しかし全く淫魔が絶えては、弱ったシンメルと共に吸血種は滅ぶ。公爵達の懸念する同胞の死とはフリーレンに限ったものでなく、シンメルを軸とする種族性、その限界を危ぶんでのことだ。カリヴァルドが決断を急くのもこうした背景の上であった。
 現在公爵と呼ばれるのはリーベン、クディッチ、キルベンスのみ。爵位のなかでも特殊な分岐を経てこの三家は確立され、政治と密接な繋がりを持ちながら独自の執行機関として機能している。花と蜂の連携は吸血種達の生命線、公爵等はこれを管理、保護する重責を担い、種族性管理という役割として一括りにされていた。
  
「私の遺骸はクディッチの当主が処理するでしょう」
 
 カリヴァルドが爵位を継いでからというもの、淫魔の処理は一度も成されていない。それどころか彼は妹に市民権を与えた。ノウェルズは吸血種と肩を並べて名門ヴィレンスアクト学園を卒業、紫書官にまで昇進。彼女の半生は兄の尽力によって開かれたのである。

 

「……しかし、キルベンス様が私の遺体に関心があるのであれば、花園に散布する前に解剖してくださって構いません」
「なんと喜ばしいことだろう。純潔のまま貴女ほど長生きした淫魔の前例はごく僅か。早速ですが、承諾書を用意しても?」

 キルベンスの双眸は蜂蜜色に輝き、期待に満ちている。
 
「勿論。後世にお役立て下さい」

 

 医師免許を持ちながらキルベンスがハルモニの研究へと転身した事実は、ノウェルズには適切と思われた。患者に対する彼の態度は倫理観的に問題がある。
 薪の割れる乾いた音に、二者は暖炉を見た。室内を暖めていた火が揺らぎ、不意に青く変色する。雹の降り注ぐ頃には、燭台や暖炉の火にこうした現象が多々起こるのだ。
  
「出来ました」
  
 奮闘を続けていた女中は、達成感に頬を染めていた。彼女が身を引くと、ノウェルズの左耳の傍で輪上にした三つ編みが揺れ、青いリボンで結ばれていた。
 幼きノウェルズは踵のつかない高い椅子に座り、鏡越しに少年期の兄の、それでも大きく見えた手が細かな作業を素早くやってのける様を楽しい心持ちで眺めていたものだ。頭頂部から毛先に流れる銀の川は、カリヴァルドが磨き続けた輝きであり、今はノウェルズ自身が劣化させないよう維持している。片側に編んだリボンは滑り落ちてしまわない秘訣があり、手入れの仕上げといえた。女中に礼を述べて、ノウェルズは寝台を離れる。
 部屋の高さは二階。正面には別棟の壁が聳え、グライブの街もフリーレンも見通せない。
 窓を開けると雹の降り頻る音が鮮明となり、冷えた窓枠に触れていたノウェルズの手を、降り込んできた雹が直撃した。亜種であろうとも、グライブに満ちたる冷気が味方をするのは吸血種のみ。
 眼下に広がるのは中庭、一面を埋める純白の花園。上向きに咲く花弁はヴェールに似て端が波打ち、やや透ける。土を掠る長さの花弁が茎の傍で絡み合い、白のドレスを纏う貴婦人の姿にも、襤褸に脚を取られる痩せた女にも似ていた。
 あの白を支えるのは、生まれて間もなく殺された淫魔達の遺骸。クディッチ屋敷に眠る断頭台で胴と首を次々と分断し、流された血と肉。グライブでこれ以上に美しく、生に直結した墓地は他に無い。
 ノウェルズの側を、ハルモニがすり抜けた。銀髪の隙間を縫って遊んでいた蜂は、本懐を思い出すようにシンメルの花園へと降りていく。蜂に生まれついたからには、雹を掻い潜ってでも花の元へ馳せ参じるのだろう。その小さき背に彼女は学ぶ。為すべきことを成した先では、死もまた受け入れるべきものとなるはずだ。
 陽が昇り、月が沈み、新しい朝が来る。生を祝すに似た自然さで───できる限り、そのように。

淫魔

4/夜へ          

 書斎の窓辺に立つカリヴァルドは、背中でノックの音を聞いた。硝子越しに映りこんだ扉が、許しを待たずして開く。
 入室してきたのは、カッツェ・ロートヒルデ子爵である。暖色系の派手な色で流行の型を着こなすのが彼流の主義で、今夜も黄色のジャケットを羽織っていた。笑顔が第一印象に残る朗らかな男で、カリヴァルドとは学生時代から付き合いがある。
 窓辺にふたり立ち、青い火の灯る手燭をカッツェが差し出す。

 

「君に、青の幸いがありますように」

 

 凍礼祭の期間中、寒さは和らぎ雹が降る。
 火が青く変色する理由は定かではないが、青い火を手燭に移し、親しい者に手渡すというまじないが民の間では主流で、家僕も興じた。カリヴァルドがそうした遊びに交じることはないが、子爵でありながら好奇心旺盛なためか、カッツェは青い火を押し付けてくるのだ。
 カリヴァルドが手燭を受け取ると、揺らぐ火は赤く変色、入れ替わるようにして咥えていた煙草の先端が青に輝く。薄い唇からは苦笑と共に紫煙が漏れた。

 

「どうも吸いづらいね。せっかくの青い火だから、お前にあげようか」 
「そんなちんけな火、要らんわ」

 カッツェの金髪は後方に撫でつけられており、夜にも没さぬ陽が如くに輝く。長身故、大抵は頭頂部か額に話しかけねばならぬカリヴァルドの視点の高さに在って、彼の金髪は特に眩しい。
 カッツェの側を離れたカリヴァルドは、灰皿に影を落とすと、まだ十分な長さのある煙草を揉み消した。肘掛け椅子に腰掛け、遅れて咳き込む。体質に合わないのだ。それでも吸ってしまう。苦みが気分を落ち着かせ、滔々と止まらぬ思考が咳によって途切れる、その一瞬の空白を気に入っているのかもしれない。
 カッツェが翡翠の双眸を眇めた。

「君さあ、妹ちゃんと会ったりした?」
「何故?」
「カリヴァルドが煙草吸いだしたんは妹ちゃんが出ていった頃。最近やらんなと思っとったのに急にまた吸っとるから」
「会ったよ」
「ノウェルズ、元気にしとった?」

 淫魔の詳しい生態を知らないカッツェが暢気に訊ね、カリヴァルドは穏和に頷く。

 

「元気だった」
「ほんまか」

 

 カリヴァルドとカッツェ、ノウェルズは昔馴染みであるから、カッツェがノウェルズの不在を寂しく思い、健康を喜んだことは、僅かな表情の和らぎからも充分に見て取れた。
 グライブにおける爵位は種族性管理と深く絡みあい、子爵は種族性管理に関与しない。公的な場であるほどカリヴァルドの家格が目立ち、カッツェとの差が開く。しかし、そうでない時の二者はいつも互いの表情に注目しあい、よく笑った。

 

「僕の弟もこないだ久しぶりに手紙送ってきてんけどな。定期で近況報告くらい出来へんのかっちゅうねん」

 

 カッツェには年の離れた弟がいるがカリヴァルドとの面識は無い。誕生の吉報には祝の言葉を伝えたが、あまり過度な接触を持つべきでないと考えたのだ。
 クディッチとロートヒルデの間には、カッツェの知らない確執がある。カッツェの父、ビンギスがカリヴァルドの父、エヒトを殺害したのだ。カリヴァルドからしてみると、ロートヒルデ親子は父の仇といえた。
 示し合わせたことこそ一度もないが、カリヴァルドとビンギスは各自で口を噤んだまま現在に至る。
 憎しみが消えたわけではない。カッツェにわざわざ真実を知らせて笑顔を陰らせずとも、彼を斬りつけることなら何時でも実行出来る。その気がとんと起きない、というだけだ。
 要するに、カリヴァルドは取り返しがつかない深さの友愛を、カッツェとの間に築いてしまっていた。
 書斎机の引き出しの中にはビンギス・ロートヒルデから受け取った手紙が仕舞われており、病に臥せっていて、近々会いたいという。友は何も知らされていないらしく、カッツェから父親の話は出なかった。

 

「せやけど、中央図書館の崩落は魂消たなあ」

 

 暖炉傍の肘掛け椅子、カリヴァルドと差し向かいの位置に腰を下ろして、カッツェが話題を移す。
 リーベンの招集を受け、最もリーベン公爵邸に近い別邸に移ったカリヴァルドであるが、彼の治める領地に聳え立つ本邸から空を仰いだとて、フリーレンの存在感は失われまい。夜に見る氷の大樹は、根に相当する範囲は藍にクリームを垂らしたような雲が広がったまま、時間帯により形を変えても離散することがなかった。

 

「負傷者が無くて、何よりだ」

 

 フリーレン直下に建つのは、巨大な図書館だ。図書館とは各地に点在し、種々の公的手続きを担う複合施設。職員の全ては司書として統括されるが、彼等の仕事は蔵書を離れて多岐に渡る。供血の支給手続きと管理、行政事務を常駐する司書が行い、特に地位の高いものは歴史家としての側面を担い、公文書発布などに携わる者を司書の一等、紫書官と呼ぶ。紫書官は首都に置かれた中央図書館にのみ在籍した。フリーレンの欠片が降り注いだのは、この中央図書館の中庭である。
 フリーレン出現後は隔離域とされ、敷地内への侵入は禁じられていた。司書は別所に移り業務を継続しているが、カッツェが到着するより早く、蔵書を案じた司書が数名、現場に駆けつけていた。

 

「天の枝が落下し、地に触れた瞬間、周囲一帯が凍りました」

 庭園で育てられていた薔薇は、姿そのままを留めたまま、鮮やかに凍っている。

 

「破片は?」

 

 問うカッツェの爪先が、下草を踏む。氷菓子を咀嚼するような、哀れな音をたてて草が罅割れた。

 

「肝心の破片は形を喪ってしまいました。溶けるというより風に粒子が攫われるような消え方で、何も回収出来ていません」

 

 氷漬けの庭園はまるで硝子か、その脆さをいうならば飴細工で仕上げられたかのようだ。ここに同胞のひとりでも巻き込まれていたならば、不幸な氷像もまた、触れた途端に砕け散るであろうことは想像に難くない。
 カッツェが顎を反らせた頭上では、絡み合う枝が視界を覆う。樹皮は氷に似て白濁しており、芯に水が通ってみえる。雪を待ち構えるように片手を差し伸べると、偽りの水面が掌に乗った。外壁や柱、カッツェ自身が立つ足元にも、透けた光と戯れ、模様を変えて揺らぐ水面が目に付く。体温を根こそぎ奪う寒さの中、確かにカッツェの息は白い。だというのに、水膜の張ったような、或いは生き物の胎内に収まっている錯覚を彼は覚えた。
 カッツェは伯爵からの指示を受けて現場に向かったことで午後を潰されて、クディッチへの訪問は夜になったのだという。

 

「廊下まで薄氷が張っとったわ。フリーレンてのはリーベン様が決めはったん?」
「ノウェルズが言語学者としての見地から、石版に準じた仮称をと」
「僕んちの弟も司書やから、部下としてノウェルズと面識あったらおもろいなあ」

 

 カッツェが、微睡むように笑む。懐かしい記憶へと、心が舵を取り始めたのだろう。喉の奥に感傷を留めたままカッツェはクディッチ邸を去り、彼に代わって過去を言葉にしたのは女中であった。

 

「僭越ながらお声かけをお許し下さい。ノウェルズ様は屋敷にお戻りになりますでしょうか?」

 

 図書室の長椅子に寛ぎ、カリヴァルドは茶器の用意を頼んでいたのだが、支度を整えたのはドリスという娘だ。身分差に緊張して先の続かない彼女にカリヴァルドは頷く。

 

「いや、戻るまい。新しい部屋は必要無いよ。仕事が忙しいのだ、活躍している」

 

 最後の一言に、ドリスは励まされたらしい。

 

「ノウェルズ様は伯爵家にいらした頃から立派でした。勿論、旦那様も」

「私もか? 昔はよく君を困らせた」

 

 ヘッドドレスに金の巻き毛を詰め込んだ女中、ドリス。彼女はかつてヴィルベリーツァ伯爵家に仕えていたが、カリヴァルドが引き抜いてクディッチ家に連れてきた。以後は女中頭に次ぐ権限を与え、重用している。
 幼き日の兄妹は伯爵家に身を寄せていた時期があり、ドリスは小さなノウェルズの側付きであった。彼女達には絆が結ばれて見えたし、淫魔への知識も理解もないなかでドリスは献身的に尽くしてくれた。

 

「妹君をお任せ頂けたことは、この身の喜びでございます。どれも大切な思い出です」
「そうだね」

 

 過去を共有する存在の最たるものは家族、血縁だ。どこへ行き、誰と話せど、後から追いきたって肩を掴まれる。血痕のように転々と、或いは鎖のように巻き付き、歩む先へと引き摺らねばならない。
 カリヴァルドとノウェルズが兄妹ながらに独特の緊張感を内包しているのは、アーベル・クディッチとヴィーケ・クディッチが姦通した故のこと。アーベルとヴィーケは兄妹でありながら交わり、ノウェルズを産んだ。吸血種の近親姦で淫魔が生まれるのだ。
 カリヴァルドには叔父のアーベルが何を考えて母のヴィーケと通じたか甚だ疑問だが、彼等の内情に構う気力は既に失せている。 彼は非常に忙しい立場であるし、両親の咎で損害を最も大きく被ったのは、ノウェルズだ。
 兄がクディッチ家の権威を復活させたように、妹は紫書官として大成した。親から子、先代より続く泥濘の道は離別の十五年を経て、カリヴァルドとノウェルズの世代で絶たれた。そうと確信したが故に、ノウェルズは合議の直前、渾身の力でカリヴァルドの手を握り、信頼を示したのだろう。
 先代が管理していた頃は陰るばかりであった屋敷と領地を再興し、当代の主を得たクディッチの邸宅は最盛期、それ以上の絢爛さを帯びて、燭台が隅々までを明るく照らしている。
 カリヴァルドが息を詰めると、主の変調に応えるかの如く暖炉の火が盛んに燃えた。紫水晶の双眸が曙光の輝きに潤み、光が滑り落ちる。
 涙だ。暖炉の光を受けながら、彼は落涙する。吸血種が供血者の顔を知ることはない、探すことも。だが、その死を必ず感知した。
 吸血種、特に貴族階級は料理に混ぜて血液を摂取する。小瓶に収めた血を邸内の料理長に預けて、火を通さないソースや飲み物に混ぜ入れて糧とするのだ。食事の際、誰もが指輪に口付けてヒト種への感謝を捧げる。そうした習慣から、カリヴァルドはごく自然な仕草で薬指に口付けた。
 供血者との別れは唯一ではなく、長い寿命のなかで吸血種は短命の供血者を替えながら命を繋ぐ。それでも尚、面識の無いヒト種の死期を悟ると、大なり小なり理屈を超えた悲しみが去来した。同胞の誰もが覚えのある感傷で、それ故に涙を堪える術がない。
 
「この時に逝ってしまうとは」
 
 火にくべて弔いとするために、指輪は決まって木製である。カリヴァルドは目元を拭って立ち上がると、死者への感謝と共に指輪を外し、暖炉へと投げ入れた。火の揺らぎに飲まれ、輪状の絆が形を喪う。
 
「ありがとう」

 彼の感謝は喪失とは異なる響きをしていた。暖炉を睥睨する眼差しは暗く澄み、角度のためか一筋の光も及ばない。

夜へ

5/陽の輩        

 ノウェルズの住まいは地上を離れて三階、集合住宅の一室である。
 外観は縦の長方形、外壁は街並みに馴染む白。窓枠を飾る彫り模様が洒落ていて、張り出たバルコニーの鉄柱と、住民が使用する階段のみが黒い。
 扉の前に何者かが佇んでいた。黒の外套を着込み、長髪の毛先を肩で一つ結わえにした青年、ユゼリウスである。

 

「手紙、届けに来たぜ」

 

 ユゼリウスは職人の徒弟として工房を間借りしていたが、衣食住の世話を無償で受けているわけではなく、日雇いの仕事を請負って小銭を稼いでいる。
 彼は素朴な顔立ち、振る舞いには些か朴訥な節こそあれど、近隣住民の雑事を安く引き受け、しかも熱心で嘘の無い気性故に、広く信頼されていた。
 フリーレンによってグレンツェ語の重要性が増したことでノウェルズは多忙を窮め、留守がちである。手紙や伝言をユゼリウスが預かり、定期的に彼女に届けているのだ。
 彼は合鍵を用いて、扉を開く。手紙の束を置き、玄関口を振り返ったユゼリウスが眉を顰めた。

 

「あんた、顔色が悪い。また血を吐いたんじゃねえか」

 

ノウェルズは返答せずに背を向け、昇ってきたばかりの階段を再び降りていく。ユゼリウスは開けたばかりの扉を施錠してから、慌ててノウェルズの小さな背中を追う。

 

「どこ行くんだ。なに怒ってんだよ」
「貴方が馬車の事故に巻き込まれたと聞いた」

 

 ノウェルズが青ざめているのは、合議においても失神した不調のためだが、当のユゼリウスの身を案じて血の気が引いた為でもある。
 午前中、凍礼祭で賑わう大通りにて騒ぎがあった。走行中の馬車の前を、老婆が横切ろうとしたのである。或いは、馭者が老婆に気付かず馬を走らせていたのかもしれない。馬車と老婆が接触する寸前、ユゼリウスが飛び出してこれを庇い、難を逃れたという。大通りに目撃者の多かったことから、ノウェルズの耳にも騒ぎが届いた。

 

「打撲や捻挫があれば、後から悪化することがある。まずは医師の診察を受け、数日は安静になさい」
「だからって、今すぐ医者にかからなくてもいいだろ。あんたが茶の一杯で俺を労るくらいしてくれたほうが、よっぽど元気になるかもしれなかったのに」
「悪化してから苦しむのは貴方です。馬車に乗ったら、あとはひとりで向かえるな。そこまでは送ろう」

 

 ユゼリウスの容姿は青年、ノウェルズはヒトでいえば少女期を脱してすぐの頃合いに見えるが、両者の精神年齢は一世代ほどの開きがある。ユゼリウスは成体になりたてで、ノウェルズはとうに成熟していた。そのためか、窘められると青年は極端に弱る。
 ユゼリウスはノウェルズの様子を伺っていたが、気まずさの尾を引きながらも、救助した老婆について語り始めた。

 

「婆さんは無事だったけど、脚を挫いた。暫くは介助が要るし、俺が引き受けるつもりだ。しかし肝心の婆さんが泣くんだよ。それを、明日からどうすりゃいいか迷ってる」
「彼女の住所は何処だ。私が往診の手配をする」
「そうじゃねえ。怪我じゃなくて、せっかく助かったっていうのに婆さんが気落ちしたままでいるってことが問題なんだ」

 

 歩幅は彼の方が大きいにも関わらず、ユゼリウスが歩調を緩めてノウェルズに遅れた。数歩こそ彼の先を進んだものの、ノウェルズもまた速度を落とし、彼と並んで歩く。

「婆さんはあの通りで死んじまったほうがよかった、間違って生き延びたなんて言う」

 

 面識のない老婆の心境などノウェルズには推し量りようもないが、ユゼリウスが老婆の事故に過去を投影していることは明らかだ。
 馬車の横転事故で彼の両親は死亡、幼いユゼリウスだけが車外に投げ出された。現場に居合わたのがノウェルズで、それが出会いだ。彼女の保護と医師の治療を受けてユゼリウスは一命を取り留めたのである。後に彼は孤児院に引き取られ、本来ならばそこで縁が切れるはずであったが、成長したユゼリウスは今でもノウェルズを頻繁に訪ね、姉のように慕う。

 

「間違った生還とか、死ぬべきだとか、俺はすっげえ嫌なんだよ。なあ、ノウェルズ。婆さんをどう励ませばいいと思う?」
「さあ」

 

 ノウェルズは、フリーレン出現による不安に駆られて老婆は心身を弱らせたのではと推測した。民の誰もが密かに抱いている恐怖であろう。あの巨大な氷の樹は何か、どんな害を、災厄を齎すのかと。
 恐怖と不安は研究者間にも広がっており、ノウェルズはグレンツェ語研究所内でのやりとりを思い出す。

 

「グレンツェ語の蘇生が呼び水となって氷の樹が出現し、我々は滅びの瀬戸際に立たされたのでは」
  
 フリーレンがグライブにどう影響を及ぼすかの裏付けを取っていくのだから、所員といえども当惑するのは当然だ。
 グレンツェ語と凍気の相関性は確かだ。その特質性により、グレンツェ語の発音が正しければ瞬時に現象を現す。研究所開設から十年、場所を選びつつ、凍気の猛りを頼りに発音を探る試行錯誤が繰り返されてきた。しかし、フリーレンに関わる全てについて、断定するには時期尚早であり、これを解明するための一助としてグレンツェ語研究を急ぐべきだと、ノウェルズは職務的に答えた。答えたつもりでいた、というべきである。
 
「吸血種でないから、滅ぶ恐れもなく解読を続けられる。貴女が淫魔だから」
  
 所員が語ったのは、亜種への不信。銀髪と赤い瞳は吸血種にとって異質である。出世してからというもの、社会的地位と所属する環境が特殊であるからか、ノウェルズが偏見を受ける機会は減少し、周囲に与える淫魔の印象を彼女は失念していた。
 有事の際には、上司であればこそ所員の不安を和らげ、研究所内の不和を回避すべきだったと今でこそ痛感しているが、助手が弱音を吐いた時のノウェルズは冷淡であった。

 

「不安なんです。本当に、みんな死んでしまうなんてことがあるのでしょうか?」
「我々が死んだとしても、研究は遺さねばなりません。恐ろしいのであれば、貴方は辞任なされば宜しい」

 

 この会話を経て、助手は本当に辞任したのである。肝心な時期に、上司の失言によって研究所は優秀な所員を失ったのだ。愚かで手痛い失態を経験したばかりであるから、ノウェルズはユゼリウスの相談事を受けた際、どうにか寄り添おうと彼女なりに試みた。氷の大樹のせいでないとするならば、と前置きする。

 

「悲観的な彼女の傍らに貴方がいて、頷いて差し上げることが慰めにはなるでしょう。嘆きも、聞き手あってこそ打ち明けられるのですから」

 

 ユゼリウスは納得したらしく、笑みを覗かせる。

 

「俺も、お前に話しを聞いてもらいたかっただけかもしれねえ」

 

 彼は単純に喜びを表し、ノウェルズの言葉を鵜呑みにする。短所と気づきながらも過度にノウェルズが矯正しないのは、ユゼリウスの素朴さにしばしば感銘を受けるからだ。用心を仕込むことは十分に試したが、共に並んで歩くうちに彼を変えることは難しいだろう。
 石畳の通りを歩くうち、街灯が灯り始める時刻を迎えていた。ノウェルズは捕まえた辻馬車にユゼリウスを押し込むと、財布を取りだし、運賃を彼に握らせる。 ユゼリウスの治療費をノウェルズが負担すると断言すると、遠慮のために青年が身じろぐ。

 

「金の無心に来たわけじゃない」
「私は忙しく、蓄えの使い道も無い。貴方は気にせずともよろしい」
「せめて借金にしてくれ。金を受け取ることであんたと変な関係になりたくねぇんだ」
「貴方の精神性は私が熟知している。こんな時にこそ、助け合わずしてどうする」

 

 馬車の扉を閉じると、高い位置にある窓からユゼリウスが顔を出す。彼は切実さを帯びた眼差しでノウェルズを捉える。

 

「忙しいのはわかるが、あんたこそ医者にかかってくれよ。元気でいて、俺のことも安心させてくれ」

 

 淫魔の衰弱に効く薬は無い。回復の保障をすれば嘘になる。限りある誠実性から、ノウェルズはキルベンスとの一件を持ち出した。

 

「私は診察を受けたばかりだ。さあ、酷く冷える夜だから」

 

 お行き、との一言に促されるようにして、車輪と蹄の音が響く。ノウェルズは馬車の後ろ姿を見送り、石畳の通りを引き返す。帰路にあって突然に血の気が引き、手が痙攣した。
    性交を拒絶した淫魔は短命。受け止めたはずの事実は痙攣、発汗、頭痛などの諸症状として現れ、新鮮な冷たさでノウェルズに死を突きつける。
 身辺整理を済ませても、まだ死が恐ろしい。意思や精神、気分に限らず、真っ先に体が強ばり、生存と衰弱の反射がノウェルズの痩身で諍うのだ。
 彼女は道端に寄って、深呼吸をした。症状が落ち着くのを待っていると、ユゼリウスと会うのは今夜が最後という気が起こる。
   未練は彼だけではない。グレンツェ語の仕組みが明らかとなれば、フリーレンのみならず、吸血種全体の歴史を照らす松明がひとつ増えることになろう。そのためには時間が必要で、ノウェルズの寿命では間に合わない。
 痙攣の治まらない手と手を堅く握り合わせ、押え付けながら、夜道の片隅で耐え忍ぶ。気を静めようと懸命になるほど息苦しい。痙攣だけならまだしも、喀血の症状が現れてしまえば夜道であろうと目立つ。症状の波が緩むのに合わせて、女は帰路を弱々しく辿り始めた。
 角灯を持つ行先案内人を雇い、暗い道筋を照らしてもらうべきであったかもしれない。ノウェルズの歩みは自宅を目指すというよりは、死の暗がりから生の希望に縋り付くような道程であったため、必死でいる頭からは一時的に常識的な判断が欠落していた。引き換えに、兄の姿が走馬灯のように立ち現れる。
 合議で彼を見たからか。ノウェルズが離別を決意した当時の景色が脳裏に蘇る。十五年前、仲睦まじき兄妹としてクディッチの屋敷で過ごした終わりの日。
 室内に差し込む斜陽に恵まれ、兄は漆黒のピアノと共に輪郭を金に縁取られていた。ノウェルズがヴァイオリンの弦を構えたのは別れの餞別であると、彼も意図を察したろう。
 演奏中でさえもノウェルズの下肢は潤みを湛える。敬愛する兄に反応する体の狂いは、淫魔の卑しさであろうか。熱の煩わしさの理由を追求し、自責し、言葉でやりとりしてしまえば、敬愛する兄は主義も感情もノウェルズのために譲るだろう。情に厚い彼を犠牲とせず、自己を腐らせないためには、理論づくで淫魔を測るよりも屋敷を出た方が価値的だと彼女は指針を定めていた。
 兄に向ける確かな心強さあってこそ愛を語らず、語らせずして、演奏に託す。零れた音が幾千の言葉を超越し、すべての解釈を許し、見えざる波間に彼等を包み、音流は皮膚より染みて暖かく芯へと至る。弦を下ろすと、兄が苦笑した。
  
「お前ときたら、……はは」
  
 カリヴァルドがピアノ椅子から立ち上がる。ノウェルズが長じた分より高く兄が伸びるものだから、ふたりの背丈は頭ふたつぶん離れたまま、縮まった試しがない。
  
「どうしてピアノでなく、ヴァイオリンなんだ? それなら俺が教えてやれたのに」
  
 お揃いじゃないなんて、とでも続きそうな声が頭上より注がれ、抱き締められた。

「御兄様が初めに教えてくださった曲です。月想曲」

 わかっているとも、と彼が笑えば優しい振動が直に伝わり、兄の懐でノウェルズは目を閉じる。
 淫魔の性質にも、判定期にも、是非は問わない。異性愛と家族愛の境界を探り、無理やりな結論を引き出す必要もない。カリヴァルドの妹で在り続けたければ、潔く身を離して、魂だけを繋げて生きていけばよいのだ。陽は頭上に輝き、夜にあっては月が反射し、かの光は途絶えることがない。ノウェルズにとって、兄こそは陽の輩。
 彼と幾度も交わした信頼の眼差しを思い出し、固めた拳の内側で意識しながら歩くうちに緊張が解けていく。集合住宅が見えてきた。黒い階段を登り、月に近付く三階へ。
 帰宅したノウェルズが後ろ手に扉を閉めようとした時、把手にかかったままの手が不意に引き摺られる。
 強風の悪戯と背後を振り返えると、佇立する影が月光を遮った。息を詰めたノウェルズは渾身の力で扉を閉めんと内側へ引くが、膂力に負けて扉が開き、影が敷居を跨ぐ。
 再会は、スムスを前にして完結したはず。
 雪原にまじないの鹿が崩れようとも、握手を交わした時に互いは大丈夫だと確信した。兄を信じられる喜びが喀血の度に失う生命力を蘇らせ、背筋を伸ばし続けていられた。そのはずなのに。
 
「花影にお隠しを、ノウェルズ」
  
 それは、シンメルの白い花弁が瞼を覆い、穏やかな眠りに誘うようにと祈りが込められたグライブにおける夜の挨拶。
 実兄たるカリヴァルドが微笑を浮かべ、ノウェルズの警戒を肯定した。妹の足元を照らす僅かな月光が削がれ、兄の背後で閉じゆく扉が二者と外界を隔絶する。夜に響く重い施錠音、兄妹の監獄が完成した。

陽の輩

6/皆既蝕                        

 家族愛か異性愛か、心を置き去りとした肉欲か。答えの出ない問いだ。

 カリヴァルドは妹の煩悶に早期から気づいていたが、ノウェルズの態度が頑なさを増すのを親離れと受け止め、距離をとることは成長の証左と解釈した。淫魔の欲情を無いものとして振る舞う妹の姿に、彼もまた親の自覚を強め、揺らぐ己を律したのだ。過干渉となってノウェルズの可能性を潰すよりは、豊かな未来を望めるはずだと期待した。あの頃はまだ、と付け加えなければならないが。

 屋内に導となる光源は無かったが、両者の目は闇に慣れていた。非情なる気配を色濃くした兄と、相手の出方を計りつつも抵抗の意志を固めている妹の顔とを、双方に見分ける。

 

「お前は潔癖で狭量だ。ノウェルズ」

 

 第三の道が開かれる可能性は、極限まで磨り減っている。残されているのはカリヴァルドが引き続き兄としての面目を保って妹を看取るか、淫魔に選ばれた唯一として妹を辱めるかの二択。

 彼は一歩で距離を詰めた。妹の胸倉を力任せに掴みあげると、壁に叩き付ける。弾みでノウェルズが後頭部を打ち、風を孕んだ銀髪が一拍遅れで彼女の肩と胸とに舞い降りた。

 

「性交渉、それだけを割り切れば溢れるほどの可能性は満ちているのに、お前は死を選ぶのか」

 

 力ずくで吊り上げるに従い、ノウェルズは爪先立つことを強いられて、暴れる両脚からは靴が脱げ落ちた。

 

「寿命と心得て、先に望むものはありません」

 

 気道を圧迫される苦痛に顔を顰めながら、ノウェルズが掠れ声で言う。

 

「餓死を選んでおきながら、何が寿命なものか。俺は、お前を死なせるために手放したわけではない」

 

 胸倉を掴み上げたまま俯き、妹と額を合わせる。グレンツェ語研究の保管庫たる額は小さく狭い。睫毛の触れ合う近距離で、視界はあらゆる輪郭を喪う。

 相対する兄と妹の間には、良心による十五年の歳月も、相互に建築した理性による卓子も存在しない。体格差による弊害で互いの胸が離れ、兄の影に妹が飲まれる。或いは、陽と月が重なる皆既蝕のように。カリヴァルドが鼻先を重ねると、ノウェルズは嫌悪も露わに顔を背けた。

 

「私の生涯だ。終わり方も私が決め、」

 

 ノウェルズが絞り出した語尾が喀血の濁音に飲まれる。カリヴァルドは小さな顎を捉えて固定すると、血を恐れずして赤く濡れた唇に舌を這わせた。粘膜の触れ合う音を嫌って藻掻く女を壁との隙間に挟み、角度を変え、妹の口腔に満ちたる血を呻きごと啜る。

 吸血種が血を嚥下する際、一対としての契約が結ばれる。他者の血液を誤飲すれば死に至り、故に文字通りの運命共同体となる。吸血種が数として供血者を消費しないのはまさにこの点にあった。彼等は供血者の影が伸びるところ常に傍らに在り、生涯に添うのである。

 

「……、…っ」

 

 カリヴァルドは絡ませた舌でノウェルズの絶望を捉え、返礼として唾液を流し込む。襟を離して床に踵が着くのを許す代わりに、片手で素早く彼女の鼻と口とを覆った。

 

「飲み干せ」

 

 酸素不足による反射的な嚥下を認めて、妹から手を離す。支えを失い、ノウェルズが膝をついた。淫魔の飢えが四肢を弱らせ、唾液に感化されて虚脱したのだろう。カリヴァルドが共に目線を下げたところへ、妹が頼りなく倒れ込む。

 

「私と貴方が築いた地位、周囲との絆、一切の努力、全てを侮辱する下劣なる行為。誰が救われましょう」

 

 ノウェルズはカリヴァルドの胸の暗がりに顔を埋め、兄の体液を得た過剰反応に呼吸を浅くしながら、正道へ戻れと糺す。

 

「自らとは何者であるかを思い出して下さい。貴方は近親姦の被害者だったはず」

 

 少年時代は確かに近親姦の被害者で、親の都合に振り回された哀れな子供であったろう。だが成長しきった今のカリヴァルドは何を取捨選択すべきかの判断力と、状況を変えていく能動性、社会的地位とを有する。その力の向かう先が、何処であろうとも。

 

「俺達は、秘密を共有できる。いや、すべき立場にある」

 

 被害者と加害者から共犯に持ち込んでカリヴァルドが微笑むと、妹は顔を引き攣らせた。

 

「生きていれば良いという価値観は、私には肯定でなく否定です」

「お前の思想を侮辱する気はないが、自死は認めない」

 

 カリヴァルドの声音は、酷薄なほどの冷静さで乱れない。殆ど完全と言える理解の橋を渡していながら、深い断絶を挟んで立つ。

 

「身近な者の死に耐性が低く、情の深いことは吸血種の特徴。貴方方は愛に弱り、判断を誤る」

 

 ノウェルズは感情論に見切りをつけたのだろう、種族性を持ち出す。

 グライブの歴史は大別して二つに分けられる。壁の設立以前と、以後である。以前の吸血種達が直接ヒト種の社会と交わっていた時代、供血は相互同意の下に行われる愛情行為に似ていた。短命なるヒト種の後を追って自害する吸血種は戦死した数を上回る。物理的に離れなければ、全体数を維持出来ずに滅び去ったことだろう。

 グライブを外部と隔てる壁は、ヒト種との愛情で身を亡ぼす吸血種を救い、同胞間での繁殖を促す目的もあったのだ。そうした歴史と性質を、彼女は指している。

 

「誰に情を傾けるか選ぶくらいは出来るさ。お前も、そうして俺を選んだはずだ」

 

 彼女は答えない。その喉を何が塞いでいるかといえば、兄への思慕という石だ。消化もできず、しかし吐き出さない。自己完結で済ませ、頑迷に兄を睨む。

 

「我々が寄り添ったところで何になりましょう」

「何に、だって?」

 

 ふと、カリヴァルドが声を綻ばせたのに対し、女が身を強張らせる。拒絶を繰り返す喉へと指を這わせ、恐れることはないと目で嗤ってやる。

 貴族家に生まれたがため、カリヴァルドははじめの記憶から社会構成員としての責任と自意識とが一体化していた。屋敷を軸とする生活圏、クディッチの系譜が縦軸に貫き、横幅に広げた盤石なる家格を保持し、責任を果たせねばならぬと。それだけに、生涯の建築の見通しが親の姦通罪にて崩れた時には、天が落ちてきたかの如き苦痛、無力感に苛まれ、惨め極まりない心境に陥った。恐ろしく高い自尊心により死にたいとも叫べず生きたいとも言えなかった彼の視界は、ノウェルズとの出逢いによって眩くも拡張され、道が開けたのである。全てを失くしても、まだ妹がいる。いとけない子供を守るために、一度は折れかけた膝を伸ばし、兄としての決意によって立ち上がることが出来た。カリヴァルドの世界は滅亡を免れ、再生の道を見出したのである。愛すれば応えてくれる者がいる世界、愛されることを知る自分へと。ノウェルズへの敬愛と真心から、彼は積み上げてきた概念を反転させる。妹と同じ血に濡れ、契約を交わした唇で。

 

「愛しているよ、ノウェルズ」

 

 独善的で、嗤うほど意味を蔑ろにしながら言葉ばかりが美しい。ノウェルズが、泥でも塗られたように相貌を歪ませた。

 

「それは、貴方が過去に軽蔑したもの。私が学んだ愛情とは違う」

 

 カリヴァルドは妹の切実さを駄々に貶める、殊更優しい顔つきをしてみせる。

 

「では、生きて憎め」

 

 妹の痩身を横抱きにする。寝台に影を落とし、白く波打つ敷布の上にノウェルズを横たえると、無残で清らかな香りが漂う。花束を散らしたような、懐かしくも嗅ぎ慣れた淫魔の体臭。シンメルの芳香。

 カリヴァルドは外套を脱ぎ、椅子の背凭れに預けた。部屋に不相応なほど美しい椅子と机は紫書官、或いは言語学者としての聖域であろう。身動ぎ出来ない妹を睥睨しながら、彼は手袋を外してタイを解き、取り外した袖口と襟のカフスを書斎机の上に転がす。

 寝台の上、ノウェルズの背で広がる銀髪は扇状に広がり、月の水面に彼女を浮かべていた。軽装となったカリヴァルドは広い背で女を覆うと、頬に手を遣りながら身を屈める。

 

「私達は」

 

 唯一の武器たる舌で、肉体に封じられた妹の魂が叫ぶ。救いを求める訳にはいかぬ懸命さが混じり入り、音程を乱した。

 

「私達は、家族でしょう」

 

 裏切ってくれるなという響きに感情を摩擦され、カリヴァルドは怒りによって彼女の真剣さを打ち返す。

 

「家族だからだ」

 

 血縁関係に驕ったいつかの甘言とは異なる、彼自身の胸中を由来とする言葉で。

 

「性交をすれば忽ち縁が切れるのか、男女として再生するか? 違う、侵しても家族だ。新しい苦悩の形になるだけ、しかし死ぬよりはずっとましだ。生に苦しみは付き物、些事だ」

 

 ノウェルズが目に見えて絶句する。崇高さを旨とするこの女は、かつての大義名分なくして立ち行かないカリヴァルドに教育されたのだから、当然であろう。

 

「淫魔の気質はお前の咎ではない。一滴の汚濁も許さないお前の潔癖さが、自らを死に追いやっている。愛情とは、生かすものだ」

 

 彼我の腹腔を掻き回しあって罵らずにおけないのは、感情に直結した情熱が彼にもあるからだ。浅薄な自己犠牲なぞではない。彼女が終ぞ自己肯定感を持ち得なかった深部へと、彼は告げる。

 

「他者を許すように自らをも赦せ、ノウェルズ」

 

 最も苦しい時、無力な時、少年のカリヴァルドに博愛など根付く余裕はなかった。幼き妹を愛した訳ではなく、彼女が弱く子供で、カリヴァルドしか頼れない弱い存在だから、心の支えに出来たのだ。それは弱者保護の崇高さであると同時に、子供に思考力のあることを期待しない傲慢さとが合わさったものであった。この妹は兄の驕りに気付かないほど愚鈍ではない。ノウェルズがカリヴァルドを愛する始まりには、彼女の精神性を一度ならず軽視し、時には無視した兄の傲慢さを許す寛容さがあったはず。少年時代の彼はノウェルズに未熟さを許され、深く愛された最初の者である。そのおおらかなる慈愛を今こそ自身に向けて和らげよとカリヴァルドは願ったが、妹の決意は岩より硬く、優しさと慈悲を通す隙間も無い。

 

「全てを赦す貴方のお考えは私の対極。分別というものをお忘れであるならば畜生と同じ。貴方は私の兄などではない」 

「結構だ、偏狭な正しさなど棄ててやる。唾液で喀血も止まったな? その調子で怒鳴れ、破瓜の痛みも紛れるだろうよ」

 

 耳朶で囁き、吐息で女の首筋を擽る。生娘が獲物の自覚に震えたところで、皮膚に舌を這わせた。浮いた冷や汗は、香りと相俟って茎を伝う夜露のよう。カリヴァルドには行為を先に進めるべき理屈や事情のみならず、明確な感情がある、怒りだ。

 兄と絶縁しようとも、せめて外に愛する者を探し出す意欲を持って妹は過ごしていると信じていた。実際は、この女に結婚の誓いなどするつもりはなく、墓に収まる支度を早々と整えていただけ。それはカリヴァルドにとって度し難い裏切りであり、妹の気質からは最も順当で、最悪の予想だ。

 胸や腕が掠る度、反抗に力むノウェルズの緊張が伝わるが、目端で捉えた彼女の腕は敷布の上を動かない。ノウェルズが食いしばる口元の硬さをせせら笑い、胸元に手をかける。左右に開けば、容易く留め具が弾けて素肌が露わとなった。胸元の凹凸は薄い。慎ましさに比例して、乳頭は花の色をして小粒だ。

 

「まともに食事も採れていないのか。最も、肝心な栄養素を拒否し続けた弊害であるかもしれないが」

 

 骨と皮の有様を危ぶんでいたカリヴァルドであったが、組み敷いたノウェルズは贅肉の一切ない、彫刻めいた均衡を保っていた。未成熟な少年に通ずるか細い四肢。骨は硝子かと想像させる蒼白い肌。薄く浮いたあばらの凹凸をひと撫でし、大きな掌で肋骨ごと包むようにして柔肉へと触れる。骨の上を泳ぐ脂肪を内側へと寄せて優しく捏ねると、緊張に固くなった乳頭が掌に擦れた。熱を分け与え肌理を楽しむ広範囲の触れ方から、鋭い刺激へと切り替える。乳頭を指の腹で押しつぶし、凝りを苛むように摘んだ。

 

「……ッ、ぐ、」

 

 食いしばった歯の根から、ノウェルズが苦悶を漏らす。兄には触診のように味気なくとも、刺激を与える都度にノウェルズの腰は跳ねた。淫魔にとってみれば命に関わる行為であるから過剰反応を示すのは当然だが、彼女自身の性感も過敏であるのだろう。

 カリヴァルドの前髪が雪色の肌に散る。胸元の尖りに吸い付き、口腔に含んだまま舌で転がす。汗を浮かせ、時に震えながらも、ノウェルズは息を殺して耐えていた。

 彼は、敢えて早すぎる段階でスカートの裾を捲り上げると、黒の薄いタイツを躊躇いなく引き裂き、穴から手を差し込んで無遠慮に妹の下着の中を弄る。体温に蒸れた布の内部、探る指に縦筋の淡い凹凸が触れるや、溢れる蜜に指先が浸かった。愛液の滴りはスカートの布地を過ぎ、敷布にも染みを広げているかもしれない。失禁したかのような分泌量である。

 

「こうも濡れては乾涸びてしまいそうだな。気絶するなよ」

 

 軽口を叩き、妹に覚悟を促す。性交は淫魔の生命を繋ぐ唯一の延命措置。衰弱したノウェルズの身体には幾ら精液を注いでも足りないはず、一度の交接で解放してやるつもりはない。

 なだらかな恥丘の下、ノウェルズの胸中を通して溢れた透明な膿を掻き混ぜ、誰に何をされるか、男を知らぬ器官に教え込む。縦の溝に添い、時に腹側の壁を摩る前後運動を繰り返していると、恐怖でなく快楽を掴んだのか、膣襞が異物の形を探るように吸い付いてきた。

 入口を寛げる余裕は持てないものかと指を二本の太さに増やして浅瀬を往復しつつ、親指で小粒の陰核を擦る。奥から熱い愛液の一波が押し寄せてノウェルズが呻く。

 微かな触れ合いも愛撫の一環として彼女には効果的であろうが、それよりもカリヴァルドの血の巡りが肝心だ。五感でより多くの情報を得て、勃起に至る興奮へと繋げるべく女の臀部を浮かせる。戯れに破かれたことで下肢はまばらに素肌を晒していた。あと少しで喪うが、未だ処女の身では耐え難き体勢と乱され方であろう。

 上向きに晒した女性器に口をつけて、愛液を吸い出す。腹から折り畳まれたノウェルズが、カリヴァルドの眼下で顔を赤らめた。嫌悪による怒りの血色とみたが、舌を差し込むと容易く瞳が焦点を喪い、蕩けていく。飢餓に耐え続けた身には摂取がどこからであろうと兄の体液は酒のように回りが早いらしい。いや、この妹は酒に滅法強かったと場違いなことに気を散じそうになる。

 二枚の花弁を指で引いて縦の裂け目を開かせ、薄い花弁を下から上へと舐め上げた。尖らせた舌を花芯へと埋めて荒らしつつ、気紛れに頂点の粒へ歯を当てて舌先で揺すぶり、確かな快楽を刷り込んでいく。

 

「ぁ、うぅ……は、っ」

 

 舌で穴を掘られた衝撃と、粘膜で膣壁を丁寧に擦りあげられる驚きとにノウェルズは酩酊状態となり、眼光に正気を取り戻せど、また沼へと引き込まれゆくのを繰り返す。

 奥へ向けて舌を差し込んだとき、窮屈な膣圧からノウェルズが諦めていないことを感じ取った。四肢が無効化されても腹に力を入れて拒絶しているのだ。花の香りと蜜の味わい、彼女の闘志に手応えを覚えて、カリヴァルドの腰にも血が溜まり、下肢が窮屈さに痛む。

 吸血種には発情期がある。二ヶ月に一度、堪えきれない衝動ではないが、気分が乗りやすくなるのだ。長く女を絶っていたせいもあろう、膨張する感覚は久方ぶりの攻撃性をも伴っていた。

 カリヴァルドは女の花から顔を離し、手の甲で蜜を拭う。ノウェルズの双眸に輝く敵意が緊迫さを増した。窮地に瀕して、止めを刺される段階と悟ったのだろう。

 窓枠の影が、兄妹の上を歪みながら這う。肘を曲げさせて肩の高さに彼女の手を置き、近々新しい指輪を嵌めることとなる筋張った左手の指を絡ませた。

 

「清貧を極めた後で飽食に投げ込まれれば、痩せ我慢の仕方も忘れよう」

 

 十五年も死の恐怖に抗った身だ。擦り切れたはずの精神に堕落せよと舌で唆し、カリヴァルドは女の怒りと恐れを飴玉に変える。死を見据え、覚悟を重ねた妹の気性からして、この先に伸びる屈辱的な生は受け入れ難いことであろう。肉を持たざる部位に傷をつけるためには、心に深く根付いた媒介がなくてはならない。愛であるならば覿面の剣だ。世で尊ばれている通り、最も深くノウェルズの深部に至り、精神を貫通し得よう。それをカリヴァルドは持っている。

 

「楽にしてやる」

 

 内情とは裏腹に、彼の行動は限りなく憎悪に似通う。カリヴァルドは片手で妹の首を掴むと、強く締め上げて気道を圧迫した。

 

「い、」

 

 裂かれた衣服を無残にまとわりつかせたノウェルズが苦痛に喘ぎ、拭われることのない唾液が頬から耳へと垂れていく。形ばかりに繋いだ妹の掌が汗ばむのを感じながら、カリヴァルドはノウェルズの首に回した手に一層の力を込める。筋肉の筋が浮き、甲に血管が走る。女の唇が酸欠に戦慄き、紫がかって変色していく。

 

「ぇげ、ぁっ」

 

 生命の危機にあっても、ノウェルズの四肢は垂れたまま。絶えないシンメルの芳香の中、無抵抗を強いられて痙攣する女の紅玉が、やや上方に逸れる。意識を失う寸前に、カリヴァルドは絞殺の姿勢を解いた。生死の境界線へ無理やり押しあげられた妹は、手を放した途端、剥き出しの胸部を大きく上下させて酸素を取り込む。完全に彼女の気が緩んだ隙に、屹立の先端を膣口に宛がい、濡れた肉とを擦り合わせて未開の蕾を貫く。入口をへしゃげさせ、捩じ込んだ亀頭で処女膜も抵抗も一緒くたに圧迫を押し切り、力ずくで突貫する。

 

「がっ」

 

 文字通りに腹を突き破られて、ノウェルズが殴打を受けたかのような悲鳴をあげた。出血する穴が熱く脈打つ。彼女の鼓動と体温が急所を通して伝わってくる。

 性交は今後、何度となく行われるのだ。首を締めたのは体格差への配慮、小さな膣口が裂けるのを危ぶんだに過ぎないが、そうでなくともノウェルズが力を抜かねば潜り込めはしなかったろう。腕にしろ脚にしろ、ふた回りも差のあろうかという男の陰茎を、指の三本も押込み難い膣に挿入するのは生娘には負担が掛かりすぎる。裂けたところで止めはしなかったが、確認のために指で膣口のあわいを探ると、結合部を濡らす出血は破瓜のみで済んだらしい。安堵してから、カリヴァルドは自身もまた妹の負傷に緊張していたと気付き、上体を起こす。

 窓際の寝台。月明かりに照らされた白い肌の一点に、太い怒張が血管を浮かせて埋まっている。無理やりに嵌め込ませた兄妹の凹凸、色の差異と組み合わせが奇妙に映った。脈打つ陰茎の輪郭を血が舐め、伝う。膣口から覗く淡い色の粘膜は輪状に引き攣り、限界まで薄く伸ばされて拡張されている。血管の凹凸にさえ添い、彼我に隙間がない。膣口がノウェルズの呼吸に合わせて締まる度、差し込んだ側も幹が鬱血しそうな錯覚を覚えた。

 カリヴァルドは妹の身体を透かし、自身の怒張が収まっているであろう臍より下を撫でる。この胎の奥に妹が死を覚悟してでも守らんとした家族愛や、矜持の結晶が詰め込まれている。そこへ濁った白濁液を注ぎ混み、逆流するまで犯し抜くのだ。墓まで持ち込もうとした思慕を暴き、生を以て魂を侮辱する。未来を肯定すれば過去を否定する二律背反。

 破瓜の痛みに震えたままでいるノウェルズの脚を抱え直すと、腰の位置を合わせた。

 

「ぐ、けほっ……」

 

 相当な圧迫感があるらしく、ノウェルズが苦悶に咳き込むが乾咳である。

 

「苦しいか。悲鳴なり絶叫なり、堪えずに出しなさい」

 

 花弁は男の根元を食み、何百という襞が複雑な蠕動で急かし、埋めたら突けと静止を許さない。持ち主の意志に反しながらも、苛烈な反応は彼女らしい。律動に腰を揺らすと、重みを受けた寝台が軋みをあげる。

 押し出されそうになりながらも蜜壷を突き、雁首で粘膜を削ぎながら彼専用の穴へと胎内を作り変えていく。最奥の壁が侵入者たるカリヴァルドを受け止め、急激に吸い付いた。楚々とした小さな花が犠牲になった見た目のまま、穿つ度に膣奥は精液を強請って急速に練度をあげていき、怒張を貪欲に咀嚼する。腰を引けば追い縋るように襞が絡み付き、押し込めば肉の小波が歓迎する。敷布にる深い皺に受け止められ、揺すられ続けるノウェルズの眦から涙が伝った。

 

「止ま、止しなさ、い!うぁ、あッ」

 

 ノウェルズの苦悶は快楽に近づいて甘やかだ。絶え間ない愛液に早くも破瓜の血は洗い流されている。摩擦により体液が泡立ち、吐精を待たずして白く濁っていた。名器と呼べる胎内、それも格別の品。相手が実妹であるため、情欲に熱中しきれぬカリヴァルドでさえ中毒になりかねないのではないかと危ぶむほどだ。女と淫魔の胎の違い、命に直結するが故の激烈な反応。

 淫魔の体が切実に訴えている。呑気な愛撫を受けるよりも、速やかに精を得る必要があるのだと。

 

「酷く揺さぶるが、我慢なさい」

 

 忠告こそ穏やかだが、容赦はしない。女の腹を躍起になって掻き回し、卑しい音を夜に響かせる。カリヴァルドを包み、悲鳴と嬌声で泣き叫ぶこの熱は、身体を離せば必ず冷えて、いつか跡形もなく土に還る時が来よう。想像するにも苦痛で、カリヴァルドは自重を支える腕の先で堅く拳を作る。

 

「ぁ、ああ、」

 

 妹の涙は中心を穿たれる生理的な衝撃によるものか、懊悩の現れか。なればこそと、カリヴァルドは切実に思う。彼女の精神性に光を見るほど失くすのがあまりに惜しく、寂しく、悲しく、尽くせる手を全て尽くしたい。

 ノウェルズが引き寄せるまでもなく、死は必ず訪れる。誰にも変え難い存在の結末として、彼女に約束された死の摂理。この時限まで何ができるかと考え続けた半生だった。

 世から孤立した幼き妹は、かつて血を水だと言い、家族とは何かとカリヴァルドに疑問を投げた。少年時代の彼は、この問いに答えられなかった。

 家族とは同じ囲いに暮らす集合か。違う、それでは足りないと今ならば答えてやれる。自らの何を分け与えても当然と思える存在こそが家族だ。血に因らず、心と時によってのみ育まれる実感が、あらゆる危機を前に自分と同等の一部として救わねばおかぬという激しい衝動と責任感を伴う想いとが。

 シンメルの供物になど誰がしてやるものか。カリヴァルドの心を反射し、共鳴した片割れを維持したいという望みは、負傷した腹から臓腑が漏れ出ないよう傷を抑えるのと同等の切実さだ。

 言語学者たるノウェルズを生かす理由はいくらでも数えられる。だが、今のカリヴァルドにそうした正当性を並べる必要は無い。心から愛した相手に一秒でも長く生きていてほしい。他に理由は要らない、ノウェルズが決して容認できないのは当然だ。彼女が彼女だからこそ死を選ぶように、カリヴァルドも彼であるからこそ、これほどまでに妹の死を厭う。今ではない、まだその時には早すぎるのだと。

 

「ノウェルズ」

 

 片腕で抱き締めた身体の、歳月を経て一層痩せた痛ましさ。畜生の所業を為す間とて、感じ入る情動はあるのだ。心があるから愛情という不可視の概念に紛動され、敬愛の念に震えることが出来る。

 

「決して、貴方を赦しはしない」

 

 組み敷いた女が憎悪の眼差しでカリヴァルドを照らす。両脚を開かれ、尊厳性を粉微塵に砕かれながら、自分の傷より相手を糾弾する闘志と怒りを喪わない。雲に隠れ、翳ってみせたところで必ずカリヴァルドを惹き付ける月の眷属、その満ちたる美しさ。

 

「どうぞ」

 

 カリヴァルドは満月に通じる後頭部を片手で掬いあげ、かつては手入れを欠かさなかった銀髪を五指で掴むと、手網代わりに引く。女の紅玉の眼差しが諦観に濁らずして敵意に澄み、開花した憎悪が宿る。熱に溶けることなく冷やかに冴えたる瞳、獣に近しい縦長の瞳孔。

 憤怒の形相を鑑賞しながら、膿みきって血の交わりに熟し、体液を滴らせる妹の傷口に猛りを激しく突き立てる。腹の最深部を殴りつけ、しがみつくように戦慄く膣の甘美さを堪能する。

 臨界点を目指して熱が煮え立つ。吐き出す先を求めて本能が荒れ狂い、彼我の境界を束の間に喪い、原始的な熱狂が射精管を駆け上る。子宮を持たず精子を貪るばかりの胎へと、乞われ続けた白濁液を思う様、浴びせかけた。

 

「あっ」

 

 ノウェルズが目を見開き、背を仰け反らせる。彼女の脚が見えざる手に引かれたように緊張し、足指までが痙攣する。

 吐精に一度、二度と跳ねる怒張に、収縮する膣襞がまとわりつく。残り汁を吸い上げて気の緩む隙を与えない。男性であり、体力もあるカリヴァルドはそう息を荒らげず、下肢も余力を十分に保っているが、彼の影に覆われた妹は虫の息だ。

 

「は…、は……っ、」

 

 ノウェルズは下腹に手を遣り、触れてはいるが腕の力を取り戻したか気づけているかどうか。息を荒げ、顔を赤くして目を見開いたまま、カリヴァルドを見ているでもなく、忘我の域であるかもしれない。

 気付け代わりに、深い腰の一打で直接、腹の底を叩いてやる。染み出す愛液に精液の濁りはない。一滴残さず吸収されたのだ。

 

「上手に飲めたじゃないか。偉いぞ」

 

 妹の背を抱き寄せて身を起こす。膝に乗せてやると、蜜壷に嵌め込んだ杭が女の自重によって深部まで飲み込まれていく。ノウェルズが兄の胸に手をあてて距離を取ろうとするので、小さな尻を掴み、下から突き上げた。

 

「ひ、いぁっ」

 

 串刺しにされて、無力な小動物のような高い音で妹が鳴く。倒れないように背を支えたカリヴァルドの腕に、銀髪の滝が流れ込む。

 

「手弱女のような声も出せるのだな」

 

 精液の味わいを知ったばかりでありながら、強請り上手な肉は全体を駆使して幹から亀頭までを扱き抜き、雁首による連続的な刺激と殴打に潤滑油を溢れさせて狂喜する。

 熱で溶けそうな性的快楽が神経に染みるのを嫌ってか、ノウェルズが身を捩った。覚えたてのように拙い抵抗を見守る心地を、風切り音が断つ。

 そこまでの体力を取り戻せていないだろうに、ノウェルズは枕元の棚に置かれた花瓶の口に指を引っ掛け、カリヴァルドの側頭部目掛けて振りかぶったのだ。直撃する寸前、万が一にも妹を床に落としては受け身も取れまいという躊躇いから、カリヴァルドの動作は遅れた。花瓶は彼の耳の側で凄まじい音を炸裂させて、破片を散らす。前髪から顎にかけて血が伝い、衝撃の余韻に頭の中で大鐘を揺らすような痛みが響く。砕けた花瓶の本体が、重い音で転がった。

 

「抵抗する体力が戻って嬉しいよ。俺も甲斐があったというものだ」

 

 女を無理矢理に抱き寄せると、拒絶に筋を浮かせた首筋へと牙を突き立てる。吸血種は牙を用いず、望むこともない。だが、カリヴァルドは真珠色の牙を妹の肉に埋めた。

 この瞬間、二種の閃めきが彼に走った。第一に、牙を用いた血の啜り方。先端には小さな穴があり、妹の血液が自身の内腑へと染みていくのを実感する。太く、新しい血管と神経が体内に通ったかのようだ。

第二に、妹の中に埋めた屹立より根深いところ、種族的な意味の縛りを得たのだと、供血者の死を悟るに似た自然さで理解した。血の凝固は牙の作用により皮膚下で防がれ、滑らかにカリヴァルドの喉へと滑り込む。

 

「……、」

 

 はじめての吸血。加減を誤り、飲みすぎたと気付いて顔を離す。僅かな吸着を覚えて牙が抜けた。ノウェルズの白い首には穴が二つ空いており、外傷としてはそこまでだ。

 むしろ、カリヴァルドの頭部から流れ続けている流血の方がより酷く、肩を赤く湿らせている。

 吸血された影響か、妹は取り戻したばかりの威勢を欠いて、力無く俯いた。かといって休ませてやる訳にはいかない。厚みのない胸部に手を這わせ、ささやかな乳房を揉みしだく。先端を指で摘むと、堪えんとするくぐもった悲鳴に続き、素直な嬌声がノウェルズの喉から転がり出る。

 カリヴァルドの流血を浴びて、ノウェルズの素肌に血痕が咲き乱れる。覚えたての快楽に免疫もないまま、女が立て続けに絶頂を迎えた。二度目の精液を獲得する前に総身を震わせ、爪先で敷布に皺を刻む。

 律動に従い、垂直に伸びたノウェルズの長髪が揺れて、カリヴァルドの目を眩く刺す。左側で揺れていたはずの編み込みは解け、気付けば青いリボンが床に落ちていた。カリヴァルドの爪先が懐かしい青を踏んでいたが、彼にとっては腕のなかで喘ぐ女の吐息の熱さの方が、余程に重要だ。

 精液を得て徐々に自由を取り戻しつつあるノウェルズを敷布に転がし、今度は両腕を頭上に縫いとめて貫く。女の腰が六度目を数えて痙攣したのを受けて、カリヴァルドは結合部を確認した。逆流した精液が彼我の隙間から滲み出ている。ようやくか、と彼は息を吐いた。額の流血が止まった代わりに、彼の顎を汗が伝っていく。ベストをいつ脱いだか記憶になく、シャツにも熱気が籠って皺だらけだ。

 

「……おや。忠告してやったというのに、この子ときたら」

 

 情交に湿った前髪を、彼は掻き上げる。全身を体液で濡らしたノウェルズは、意識を失っていた。強引な繋がりで以て姦通した穴から、性器を引き抜く。

 久しぶりの苛烈な行為に、彼も疲弊していた。カリヴァルドは棚の上に置かれている水差しから洗面器に水を移すと、拝借したタオルを濡らして妹の裸身を拭う。彼女の首には吸血痕が二点と、首を絞めたときの痣のみで、他に外傷はない。蒼白かった肌には夜目にも仄かな血色が浮きあがり、いくらか健康体に見えた。清めた体を寝台に横たえさせて掛布で守り、足元の花瓶を適当に靴で端へ寄せる。ふらついた女が足裏に傷を作ってはいけないと思い直し、床を片付けてやってからその場を離れた。浴室を借りて残滓を流し、寝台の傍へと戻る。

 妹の意識は戻らぬまま、寝姿は変わらない。机の傍から椅子を移して座り、カリヴァルドはノウェルズの銀髪を指で梳く。敷布に散る銀糸を束ねて三つ編みに纏め上げ、黙々と集中した。丁寧に洗い、乾かしておいた青いリボンを側頭部で結んで仕上げとする。

 上着に袖を通して部屋を出た。強制的であるが、新しく交わした血の契約が彼女の生を保障するであろう。確信を得ていながらも心細い。かといって朝まで見守る時間的余裕は無い。額の傷に、階段を降りる振動と外気の冷たさが響き、痛みを通して彼は妹を想った。

皆既蝕

7/月の眷属        

 グライブの吸血種は、亜種が増えると統計的に数が減る。淫魔ひとりが生まれた年には不思議に出生率が下がるのだ。亜種に利点を見出し、倫理を度外視に量産したとする。すると吸血種の出生率が下がるのだから種は衰退する。淫魔に繁殖能力は無く、種の存続に支障のあることからグライブでは近親相姦を特に禁じ、不文律を犯す者があれば種族制管理の一環として公爵家指揮の下、貴族が率先して粛正するのであった。
 まだカリヴァルドが淫魔の遺骸をシンメルの堆肥とすることを知る以前、広大なる領地を預かり、グライブの伝統に複数の影響を与えたクディッチ家にあってヴィーケ・クディッチが実兄と通じたと発覚した。衝撃を受けたのは嫡子たるカリヴァルドのみであろう。不貞を糾弾した少年に対して、母のヴィーケと当時の当主であったエヒトの揃う食堂は静まり返り、彼らの平静さは姦淫が周知の事実として行われていたことを告げていた。

「家族の愛情と、男女のそれを取り違えるなどあり得ないことだ」

 テーブルクロスの影で、男性としてようやく筋の張ってきた拳をカリヴァルドは固く握り締め、母を睨めつける。

 

「何がいけないの」

 

 女には怒りや動揺は欠片も見いだせず、不気味な神妙さを保つ。彼女なりに思想のあることが薄く察せられたが、釈明や反論する様子もなく、赤い唇が自発的に開く時は永遠に訪れまいと思わせた。
 カリヴァルドからすれば、二等親以内の姦通の忌まわしさは心理的嫌悪感に留まらない。貴種として遇され、富を享受しておきながら責任を放棄したことが度し難い。先祖より相続した遺産と土地を維持し、強力な権力と巨大な責任の均衡を保つ。それが貴族の心得、我が身は常に社会に紐づき、単体で自由に出来るほど軽々しいものではない。
 ヴィーケ・クディッチは病名こそ曖昧だが、生まれついて偏った性質であろうとカリヴァルドも承知している。輝く美貌は彼女の無口さを補ったが、エヒトが妻を連れて公の場に出たのは数える程度。僅かに女主人らしく振る舞っても負担が大きく、長く寝込んで起き上がれなくなる。屋敷にこもりがちで慰問に出向くにも苦労する、漆黒の髪を垂らした病弱な女。
 妻に対して夫のエヒトは窘めもせず、叱りもせず、挨拶や僅かな雑談を交わす知人に似た親切さで彼女をただ囲っていた。時折、エヒトに爵位を譲った叔父のアーベルがやってきてヴィーケと話す。彼等は双子を疑うほど容姿の似通った兄妹で、言葉少なに寄り添う姿はクディッチ家の見慣れた光景であった。親世代が習慣化した生活様式であり、母の脆弱さにも夫婦の他人行儀めいたやりとりにも、兄妹の仲睦まじさにも、多少の疑問こそ覚えてもカリヴァルドの内に変化を望む気は起らなかった。だが、穏やかさの裏側で母と叔父が通じていたとあっては話が違う。

 

「叔父を愛することで父や私に累が及ぶとは考えなかったのですか。肉親と愛し合えば他者が苦悩を受け、死を呼ぶというのに」

 

 道徳を息子が母に語らねばならぬやりきれなさ、悔しさ、怒りの裏にひそむ悲しみがカリヴァルドの声音の厳しさに、微妙な響きを加えていた。
 情は理屈を超えると期待した。母の精神が危ういといっても、叔父と分け合う愛があるなら、夫と息子が死する可能性に痛む情もあるのではと。カリヴァルド自身が怒りを覚えながらも母と対話を試みているからこそ。

 

「結果は貴方の言う通りね。だけど過程は渾然一体なのよ、過去を理屈で裁くことは出来ないわ。私のわかることは、家族は一番強い愛情で結ばれているということ」

 

 自省しない姿勢は消極的な暴力ではないか。どうあっても埋まらぬ溝があり、対岸で女は無法を極めようとする。カリヴァルドが将来に向けて努力しようと相手は彼の事情も命も斟酌しない。
 彼は初めて殺意じみた感情を覚え、血気に逸る片手が整然と陳列した食器を薙ぎ倒す。陶器が床で砕け散り、スープはテーブルクロスに血痕の如き染みを遺した。腹の底から母を嫌悪し、忌まわしき姦婦めが、と吐き捨てる。当然に背負うはずの家格、領地、クディッチの系譜が積み上げた周囲との信任。一切を母の不貞で喪う忌まわしさ。少年の意志など及ばぬ力で状況は変化し、雪崩が村と家畜を無慈悲に飲み込むような速度で彼の目前を流れ去った。
 処刑の任を帯びたロートヒルデ子爵が私兵を連れて屋敷に踏み込み、彼の剣がカリヴァルドに貫く直前、息子を庇って父のエヒトが致命傷を受けた。父が遺体となりゆく重みを受け止め、流血の熱さに嘆く間もなく、執事を含む家僕の助力を得て、屋敷内で最も幼く若いカリヴァルドは夜の闇に紛れる。まだ息のある黒馬を駆り、死の家を離れた。寒気猛る地にて、その身ひとつ、外套すら着ることが間に合わずに凍る夜風のなかを走る。背後は森の木々に遮られ、屋敷の遠影は望めない。瓦解した生活と、臓腑に刃を受け入れて父が血泡と共に零した遺言だけがある。父は森に行けと言い、そこに妹がいると遺したのだ。
 カリヴァルドの気性と育った環境からして、惨めに逃げ遂せるなど生き恥でしかない。彼にとって、潔き死の理想像からかけ離れた我が身の有様は、生きるに値しない命であった。自ら擲つことも出来ず、介錯しきれぬために心臓が動くうちは走るしかない。黒馬に跨り、遺言に従う亡霊として森の深部を目指す。
 そして、彼は月光を見出した。淫魔の子供は皆、吸血種には見慣れない銀髪と赤い瞳を持つ。近親相姦の忌み子で、出自は穢れ、殆どは望まれぬ子だという。森の深く、隠れるように建てられた小屋に住まうクラールハイト夫妻は、秘密裏に子供を預かり、育てていた。淫魔は生まれて直ぐに処刑する決まりなのだから、監視のない環境で育てればクラールハイト夫妻の命も危うい。幼い命を憐れんだのではない。老夫妻の息子はエヒトで、彼がヴィーケとアーベルの子供を生かすには他に手段が無いとして、両親に孫として育てて欲しいと頼み込み、その慈愛に応えたのだ。エヒトが子供を預け、夫婦は命懸けで承諾した。
 この夜、カリヴァルドの元にはロートヒルデ子爵が差し向けられたが、森のクラールハイト夫妻の元へは伯爵が到着しており、小屋には既に火が付けられていた。この伯爵はデヴォルゲン・ヴィルベリーツァといい、民からは広く尊敬を得ていたが、思考は窺いしれず、重い沈黙を保つ老獪であった。彼は淫魔の子供ごと小屋を燃やして事を終わらせようとしたのだが、そこにカリヴァルドが介入し、火の中で淫魔の子供と対面したのである。
 宵闇を経て業火に照らされた少年は血濡れていた。負傷ではなく、シャツとベストが父の血を吸って染まったのである。粗末な家屋が軋みをあげて限界を訴える中、共に逃げ場のない者同士であるせいか、熱と火の粉に肌を炙られながら両者は奇妙な落ち着きを備えていた。カリヴァルドは立ち竦む子供に向けて片手を差し伸べる。

 

「家族は一番強い愛情で結ばれているという。俺はお前を迎えに来たのだよ」

 

 貴族は賞罰に紛動されず、賄賂に靡かず、私欲に乏しい。他者を視野に入れた習慣が根底に染み付き、自分だけの命を持たない。彼は咄嗟に淫魔の関心を惹こうとしたのだろう。無意識下で幼子を篭絡し、庇護すべき対象とすることで無価値な己がどうにか生きていくための、大義名分とするために。
 黒煙が視界を覆い始めているのに、淫魔はカリヴァルドに飛びつくことをしない。気高いのか、臆病なのか。子供に媚びた笑みを維持する間に、カリヴァルドの方が咳き込む。衰弱と疲弊、夜道を走る間に起こった様々な精神的な煩悶が去来し、煙でむせる度に膝の力が抜けていく。母と叔父を幾ら嫌悪しようとも逃れられない。体に影が沿うように、皮膚の下を畜生の血が通う。
 食堂を出た時には、一切が潰えたほうが潔いと決意していた。誰より先に粛清の剣に身を晒し、クディッチの嫡子に相応しき死を遂げる。そういう覚悟でいたはずなのに、煙に噎せて喘ぎ、苦しみながら呼吸をしているのは何故なのか。生き汚いだけではないか。焔に照らされ、溢れるほどの光の只中で彼の意識は昏い。煙でもなく、夜でもない場所から及ぶ翳りが自我を絡めとり、下降させていく。土に受け止められないばかりに、果てのない深さまで。

 

「死にたくない」

 

 覇気を無くし、茫然自失となりかけたカリヴァルドの耳朶を子供の声が打つ。母の声より鮮やかで、父の遺言よりも確かに。

「助けて! 私は死にたくない」

 カリヴァルドが己のためには決して認めがたい、死にたくないという原始的な感情。生きるべき価値と意義が見つからないばかりに喉を塞いでいた欲求。彼を見上げる子供の、涙を溜めた双眸を通して覗いた切迫さはカリヴァルドの精神と重なった。彼女の悲鳴は彼の悲鳴でもあったのだ。
 突然に血の通う心地がして、自分の為には指先ひとつ動かせないはずの腕があがり、カリヴァルドは子供を抱き上げる。小さな子供を固く胸に抱いて、焔の中を脱した。
 始まりこそは窮地が作った状況と打算であれ、妹なくしては一切が立ち行かず、カリヴァルドは多くを諦めたに違いない。廃人として彷徨うか再起するかの契機にあって、妹と生きることで彼は活力を得て、屋敷と領地を他者の手に譲ることなく当主として生きる現在がある。全てを無くした夜、カリヴァルドが最後に得たのは懊悩の闇に差す光。地上に輝く月の眷属といえた。
 月と陽は重なれば陰り、時の経過に従って片側は地平線に沈む、それが道理であろう。共に夜を超えたはずの兄妹ではあるが、幼い時代はとうに過ぎ去り、彼らの愛情は今や決定的な形で歪んでしまった。雲が流れ、風が囁く中、フリーレンのみが朝と夜との区別なく天を貫き存在している。
 空気が白み、宵闇が希釈された頃、ノウェルズ・クディッチは瞼を震わせた。室内は薄灰色に染まり、澄んだ寒さと静寂に満たされている。窓より差し伸べられた光の御手が、ノウェルズの投げ出した手に暖かく重なっていた。
 掛布を捲る。寝台の下を確認するも花瓶の破片は無い。顔をあげたなら、書斎机の上に転がった釦が目に留まる。襟を暴かれた際、行方知れずとなったはずの物だ。着替えた覚えの無いネグリジェの裾を揺らし、彼女はひとり窓辺に立つ。寝台と窓を結ぶ僅かな距離のなんと短く、軽やかな足取りであったことか。目覚めにつきものの倦怠感も、頭痛も、吐き気も、眩暈も、何もない。
 開け放った窓から滑り込むのは、冷ややかな風。見慣れたはずの一切は、回復した五感によって鮮やかな感慨と共に映り、知らず彼女は息を飲む。最も無垢なる光が地平線より現れ、三階から望む風景を変えていく。劇の開幕を迎える様に。

「――朝陽」

 

 四肢に漲る活力を実感すれば罪悪感も追い付かない。一夜にして齎されたものは、ノウェルズが遠く置き去りにし、忘れ去っていた本来の生命力、その全てであった。
 やがてグライブに聳える全ての屋根は光を戴き、室内に設置された家具もその物の色を取り戻すであろう。

月の眷属

8/朝陽、それから          

 妹を吸血してから二週間、それがカリヴァルドの寿命となる。通常ならば吸血種はヒト種の血液を小瓶に収めて携帯し、料理に混ぜて摂取するが、カリヴァルドの場合は生き餌であるから備蓄が無い。
 フリーレン対策を講ずる立場ゆえ、妹とは遠からず顔を合わせることになるだろう。グレンツェ語研究の進捗という形で、ノウェルズの回復は既にカリヴァルドの耳に届いている。
 彼はこの日、ビンギス・ロートヒルデの要求に応じて同邸宅を訪問した。事前に受け取った手紙によれば、息子のカッツェに伏せたまま面会したいという。カリヴァルドからしてビンギスは父、エヒトを殺害した下手人である。
 客間へと通され、卓を挟んで二者は向き合う。 ビンギスのタイを結んだ襟に着崩れはなく、全体の輪郭、衣服越しの隆起より今でも剣を奮うための筋力は失われていないと察せられはするが、目元が淀んでいる。病より来る憔悴が眼孔の影に潜み、体格の割には弱々しい。
 
「私も加齢が進み、死を意識する様になった」

 ビンギスが溜息のように零した。両者を分かつのは長卓、その上には剣が横たえられている。カリヴァルドは剣を取り上げ、鞘を滑らせて刀身を検めた。よく手入れがなされているらしく、血脂などは無い。
 この剣が最後に斬ったのはビンギスの脇腹で、振るったのはエヒト、カリヴァルドの父である。構えも覚束無いエヒトが手練のビンギスを相手取ったのだから、父の死は必然といえよう。

 

「確かに当家の剣ですね。旧い、儀礼式典用の」

 

 エヒトが斃れ、カリヴァルドが屋敷を継ぐまでの空白期間において、ビンギスは遺体の傍から剣を持ち出し、保管し続けていたという。

 

「墓まで持ち込むわけにはいかぬ故、返還すべきと考えた。私の意識が明瞭なうちにな」

 

 剣の返還を認めたのち、カリヴァルドは一目見せて欲しいと要望を受けて持参した小箱を取り出す。収められているのは真珠色をした、エヒトの犬歯。蓋が開かれた時、ビンギスは震えたようだ。

 

「お前も勘付いていようが、エヒトの死は前もった計画の上で為された」

 

 エヒトとビンギス、両者には歴然たる実力差があった。ビンギスの脇腹を切っ先が抉ったことすらエヒトが起こした奇跡ではなく、ビンギスに躊躇いがあって負傷したに過ぎない。

 

「エヒトはお前たち兄妹の為に、牙を遺す必要があった」
「彼が私の父ではない、という事実を証明するために」

 

 牙を遺して何が判明するかといえば、性交渉の遍歴である。牙を調べることで、彼は妻どころか誰とも関係したことのない、全く清い身であることが証明された。ではカリヴァルドの父は誰か。彼は既にそれを知っており、自ら語る。

 

「ヴィーケが第一子を授かった時には吸血種として生み、ふたりめは淫魔として生んだ。父親はどちらもアーベル・クディッチであるにも関わらず」

 

 生前のエヒトが牙を遺そうと思い立ったのは、彼が淫魔について調べていたからだ。エヒトは吸血種と淫魔の分岐に気づいたが、裏付けとなる物証が不足していた。それで、自らの犬歯と共に資料を遺した。一切はカリヴァルドの手に渡り、当主たる彼が管理している。

 

「エヒトの遺した犬歯とヴィーケの状態を通し、胎児の分化を左右するのは近親相姦に加え、母体の心理状態なのだと解明されました」

 

 公爵は淫魔を処分する大義名分として近親相姦を罪悪と定めているのだから、近親相姦により生まれた吸血種を野放しにしてきたとなれば大義を喪う。淫魔の遺骸なしに吸血種の生命線たるシンメルの維持が難しいと公表して混乱を招くわけにもいかない。為政者は如何なる政策も正義のもとに執行されたという体裁を保ち、秩序を保たねばならない。でなければ、国が崩壊するからだ。
 カリヴァルドは自らがノウェルズと同じ近親相姦の末に生まれた存在なのだと把握すると、分岐の事実をリーベンへの交渉材料とした。ノウェルズに市民権を認めるように要求する代わりに、公爵の落ち度も分化の仕組みも公表せず、淫魔を殺し続ける理不尽に引き続き加担するとして。
 グライブを運営し、種族性を維持するために淫魔を殺し、シンメルの追肥と成す。彼は、ここに妹だけを特別扱いするという卑劣なる例外を作り出し、紫書官としての門戸がノウェルズに開かれたのである。

 

「エヒトは淫魔全てに未来を与える、そんな大それたことを望む男ではなかった。正義が動機ならエヒトはいつでも

告発できる立場でいたし、我が身を惜しまぬ以上、何も恐れることは無い。だが、そうはしなかった」

 

 エヒトに溢れていたのは正義ではなく愛情でしかなかった、とビンギスは続け、視線を牙へと注ぐ。
 カリヴァルドもまた、ビンギスの評価の正しさに内心では同意した。亡き父は自らの心情を日記に吐露しており、文面はいつかカリヴァルドの目に触れることを意識されたものであった。彼は淫魔全体ではなく、ノウェルズを生かす道を模索していたのだ。何を知ってもクディッチの敵とはならず、近親相姦の大義を維持するために処刑されるはずのカリヴァルドを庇って死んだ、ただの父親。
 エヒトのこうした精神性に母が感化されたことで、ノウェルズが淫魔として生まれたのだとも言える。
 
「エヒトがヴィーケに道徳心を与え、社会的常識を仕込んだことは重要です」 

 

 カリヴァルドを産んだ当初、母親であるヴィーケの精神状態は閉鎖的で、常識が欠如していた。クディッチの箱庭で飼われていた彼女を変えたのはエヒトだ。
 家族で肌を重ねることはいけない。外界と隔絶された温室育ちの女はエヒトによって道徳心を与えられ、兄への愛を疑問視し、母の戸惑いと苦痛を吸い上げて胎児は淫魔へと分化したのである。
 母胎が相姦への不安や、否定的な感情を抱くと淫魔となるという仕組み。カリヴァルドが吸血種の特性を備えていたのはヴィーケの精神が未成熟だったからこそで、外界と社会を意識せず、それでいて不安を感じぬ者はよほど偏った環境下で生きてきたのであろうし、カリヴァルドと同じような吸血種はごく僅かであろう。

 

「エヒトはお前と妹が生きることを願った。血の繋がりがなくとも、家族だったからだ」  
「承知しています。貴方が私を呼び出した主題が、他にあることもね」

 

 絆で結ばれていると肯定するビンギスの態度はカリヴァルドの神経に障る。例え彼が、エヒト乃至クディッチに巻き込まれた側としても、だ。

 

「貴方はエヒトに致命傷を与え、私は絶命する彼の重みを受け止めた。同じ血に濡れた者同士、顔を合わせれば共通の思い出話が蘇るのは当然のこと。お付き合いしますよ」

 

 ビンギスがカリヴァルドに求めるのは打ち明け話なのだ。誰でもいいから長年の苦悩を分かちあいたい、気を楽にしたいということなのだろう。

     ビンギスは俯き、十指を絡めた。

 

「俺はエヒトの最期に関わりたかった。自らの関与しえない場所で、死んでほしくはなかったのだ」

 

 エヒトを殺そうと決めた瞬間よりビンギスの背負い続けた重荷が、一言に集約されていた。
 彼は家族のある身だ、全てと対決してエヒトを救うわけにもいかず、かといって無関心でいることもできず、外圧に押し流されながら殺害に加担した故に、いつまでも苦しんでいる。
 ビンギスが今更にカリヴァルドを呼び出した事実からして、長年に亘る悔恨を引き摺って来たのは明らか。親友たるエヒトの殺害はビンギスの本意ではなく、悪はどこかと問うならば近親姦を犯したクディッチに他ならない。そうとわかっていながらも、カリヴァルドはこの男がまだ憎い。
  
「昔話は終わりにする。この先も、息子を裏切ってくれるな」

 

 エヒトの親友としての悔恨を吐露してしまうと、ビンギスはカッツェの父親としての肩書きに切り替わって自らを保ち、朗らかに笑う。

 

「俺といつまでもこうして、秘密を守り続けたお前のことだ。今さら息子を害するとは考え難いからな」 
 
 息子想いの父親で、カリヴァルドすら認めるという善良な立場に還らんとするビンギスを、親友を殺害した無力な男に引き戻す方法をカリヴァルドは隠し持っている。
 ビンギスは生前の親友、エヒトの言葉を額面通りに信じているが、日記を読めばエヒトの奥底に流れ通うものが先々代のクディッチ家当主、リオへの忠義であることは明白。ビンギスを使った亡き主君、リオ・クディッチの後追い、という側面がエヒトにはある。
 息を引き取るエヒトを抱きかかえたのはカリヴァルドで、息子と娘の行く末が危うい中で遺言を残し、兄妹を引き合わせた父は、主君を想いながら逝ったのだろう。
 カリヴァルドやノウェルズ、未来の世代に尽くす父親としての麗しいエヒト像と共に、リオへの未練により死を受け入れていた、望んですらいたという暗部もエヒトにはあった。ビンギスは、その暗部を知らない。
 これらを語り聞かせて、ビンギスとエヒトの信頼関係は確かであったか、と疑念を植え付け、迷わせることはカリヴァルドには容易だ。猜疑を誘発し、思い出に罅をいれる。長年の苦悩は徒労で、善意は報われず、エヒトにそこまでしてやる値打ちがあったかあやしい、と彼等の友愛を壊すことができる。老いさばらえて死が近い今更となって、見当違いで無益な悔いに苛まれていたと発覚する虚しさ。エヒトを信じ、カリヴァルドをも信じようとしている男の精神を破壊できる手段を何通りも思いつくのに、出来ないことによる苦悩がカリヴァルドの額に鈍痛を引き起こす。
 ――死を意識する様になった。
 故に、抱えておくのも耐えがたくなった過去をカリヴァルドに打ち明けて、楽になる。そしてカリヴァルドは、ビンギスを罵ることができない。罵詈雑言を投げつけても現実は好転しない。その非情さに耐え抜く癖が、口先だけで楽になることをいつも彼に厳しく禁ずる。カリヴァルドはビンギスとエヒトの友愛に美しさなど感じはしないのに、目の前の男が酔いつつある、美化された様々な想いをへし折ってやるほどには、浅ましくなれない。

 

「お尋ねしたいのですが」

 

 カリヴァルドは言う。

 

「父親の心境とは、どのようなものでしょう」

 

 ビンギスは目を丸くした。問いかけに応えようとしたにしては、異様な顔面の強ばり。カリヴァルドは素早く立ち上がると、椅子から転げ落ちかけた男を間一髪で支えた。痙攣と発作を起こしている。

 

「医師を呼びなさい」

 

 控えている家僕に命じて、カリヴァルドはビンギスの襟を解く。その間にも青年の袖を、もがくビンギスの指が掻いた。

 

「息をして」

 

 患者を鎮めるためにカリヴァルドは言い聞かせる。ビンギスの視線がカリヴァルドを捉え、正気が戻ったかと期待したが、男はカリヴァルドの腕に縋り付くと、一気に脱力した。鼻先を掠めるシンメルの香り。吸血種の絶命を示す、死の芳香。呆気なく、考える余地すら与えもせずに死は訪れ、誰の味方ともならない。 
 後日、曇天の下でビンギスの葬儀が粛々と執り行われた。参列者の記憶のなかで会話をし、動いていた存在が今や白蝋の如き顔色をして棺に収まり、土を被せられている。ビンギスの意志を確認する術は完全に絶たれ、肉塊となり、生者の憶測と追想のなかを揺蕩うばかり。物質から概念となり、指に触れることは無い。
 ビンギスの絶命時に薫ったシンメルの香りはカリヴァルドにとってもまだ鮮明で、喪主を務めあげたカッツェをカリヴァルドが呼び寄せた際もまざまざと鼻先に香るかのようであった。
 情けないな、と零し、親族の喪失に意気消沈しているカッツェの目元が潤むのを見て、カリヴァルドは親友を優しく抱き寄せる。

 

「父君は立派な御方だった。皆が喪失感に耐えている」

 

 言葉も慰撫も本心ではあるが、カッツェに対して真心を尽くそうとするほど、妨げとなる感情が湧き出る。白い光に向けて手を伸ばすと、風に靡くヴェールが彼の腕を掠め、巻き付き、締め付けてくるかのようで、清い布地の白さを引きちぎりたくなる。ロートヒルデ家の陽気さ、愛情、素直さに触れると、カリヴァルドはいつもこうだ。
 どうしてビンギスはカッツェの傍らではなく、カリヴァルドの元で死んだのか。狼狽していたロートヒルデ夫人は医師を迎えた後、幾分かの理性を取り戻すと、夫の亡骸に語りかけるよりも先にカリヴァルドへと深い感謝を述べ、涙を抑えた。
 ビンギスは結局、クディッチと共有した陰惨さを些かも家族には悟らせず、父としての存在感を守り抜いた。あの暖かな家庭の、良き父であった男を惜しむすすり泣きが参列者から漏れ続けており、寒風の過ぎる音すらも湿った啼き声のよう。
 ビンギスを引きずり込んだ死の鎖は、ノウェルズの足首にも繋がっている。エヒトが死を受け入れようが、ビンギスが友愛から友を殺そうが、死という結末を回避できぬからこそカリヴァルドは抗う。盤上に死のカードが残るのみであろうと席を立たない。ノウェルズはまだ生きている。この、まだという僅かな時間的価値にこそ計り知れぬ重み、血と汗と体液に塗れるだけの価値がある。まだ、という一言は、彼が爪を立て続けることで維持されているのだから。

朝陽それから

9/家族          

 曇天より雪が舞い降り、墓地と街とに等しく降り積もる。針葉樹が形成する黒い森が銀に染まるにつれて生物の往来は絶え、民は自然の烈しさを窓越しに窺う。不安な精神にとって吹雪は永遠を錯覚させるが、窓枠の軋みが鳴り止む朝を迎えると、彼等は手に手に道具を持ち出して街路の除雪作業を開始した。
 積雪の障害から回復した街は、昏睡から目覚めたかのよう。往来に雑踏が戻り、馬車が走行し、郊外に茂る葉に露が滴り、鳥の囀りが枝を渡る。
 下草を潜り抜けて地を這う虫がいる。吸血種より手厚く管理されるハルモニとは異なる種類の蜂で、彼等は地中深くに巣を作り、寒さを凌ぐ。蜂と目線の高さを合わせたとして、下草越しにみる地平線の向こう岸に小さな村が存在した。集落からやや外れた位置に一軒家が佇み、木々に囲まれた家屋は慎ましくも古びた外観をしている。
 この家を目指して、遠目に馬が駆けてくる。青毛の馬に跨るのはカリヴァルドで、随伴はない。彼が鞍から降りると鼻先を寄せて馬が甘える。男は獣の肌を叩いて宥めながら、門の柱に手綱を結びつけた。
 この家の裏手には温室がある。家主は今時分そこへ行っているはずと予測したカリヴァルドを、若い女の声が引き留めた。玄関から騒々しい音をさせて飛び出してきたのは、若葉色の髪をして喜色を浮かべた娘。

 

「輝滴を、カリヴァルドさん」
 
 駆け寄る勢いもそのままにカリヴァルドの片腕に飛びつく。譬え全力でぶつかったところで、相手が踏みとどまって受け止めると期待しているからこその速度であり、実際にカリヴァルドは難なく娘の突進を受け止めた。

 

「輝滴を、カナエ」

 

 輝滴を、とはグライブの日中の挨拶で、白蜂の蜂蜜に由来する。

 

「本物だ。本物のカリヴァルドさんだ。何か月ぶりだろう。私、ずっと待ってたよ。会いたかった」
「久しいね。少し背が伸びたかな」

 

 無邪気にはしゃぐカナエに、カリヴァルドは落ち着くようにと柔らかな制止をかけた。

 

「ねえ、カナエ。隠し事が知れた時にはどうなると思う?」

 

 カリヴァルドはだしぬけに言ったが、カナエは図星をつかれた顔で硬直する。口元を震わせながら娘は応えた。

 

「わ、私の秘密は沢山あるよ。百も二百もあるから、カリヴァルドさんが言いたい隠し事がどれのことだかわからない」

 

 カナエはカリヴァルドに強くしがみつき、顔を伏せた。密着して俯けば、身長差によりカナエの表情が読めなくなる。

 

「そんなに沢山? 秘密ならば暴くほうが無粋だね」

 

 しがみつくカナエの肩に手を遣りながら微笑み、カリヴァルドは温室へ向かう。

 

「君達はオルドブルレイアという特別な存在だと、以前に話したね」

 

 オルドブルレイアはグライブでは凶兆であり、シンメルの弱体化を裏付ける存在。牙をもたぬ者が名乗る姓であり、犬歯がないので血を必要としない。吸血種から生まれて寿命が短く、生態はヒト種に近い。歴史に何度か登場するも、吸血種の強靭さもなく、概して脆弱だという。
 
「私とお母さんは牙がなくて、みんなより早く老いて死ぬ。よく分かってるよ。私たちの生涯はうんと短くて」

 

 カナエはカリヴァルドの片手を取ると、彼を台風の目として巻き込みながらでたらめに踊り、ぐるぐると回る。

 

「だから、今を楽しく生きるんだ!」

 

 男は娘を窘めることもせず、けれども動作を徐々に和らげながら主導権を奪う。ステップなど知らずともカナエの両脚はカリヴァルドに従い、蹴りあげられていたスカートの裾が優美にひらめく。カナエがはにかみ、そうしてじゃれあいながら温室までやってくると、一軒家の女主人が出入り口を施錠したところであった。
 半身にカナエを張り付かせたカリヴァルドを認めて、エリシャ・オルドブルレイアは顔を歪める。

 

「公爵さまじゃないの。何しにきたのかしらね」

 

 若草色の髪をした女で、頬が丸いせいか憎々しげな顔つきをして見せても、かなり幼い印象を与える。
 カリヴァルドはエリシャの挑発を微笑のみで受け流し、温室を覗く。内部では鉢植えが壁を埋め、手入れのされた薬用植物達が整列し、緑の葉を艶やかに伸ばして健康を主張していた。
 エリシャはリーベンを養母として育った。屋敷に暮らす間は繊細なシンメルの栽培にも携わっていたので、植物への造詣が深い。貴族としての暮らしを嫌って小村で自活している現在も温室で薬草を育て、民間薬を売って生計を立てているのであった。
 温室の外観は多角形をしており、屋根は雪下ろしのための急勾配で尖っている。しかし雪が落下するに任せていると出入り口が塞がれるので端へ避けねばならず、女の細腕では苦労する。

 

「すごいとかなんとか言ってよ。雪かきも全部私とカナエとでやってるんだから。偉いでしょうが」 
「民家が密集しているわけではないから、ある程度は積雪が滑り落ちるままにしておけば良いでしょう。身の回りについては女中のひとりも雇えば済む」
「いいのよぉ。村の皆とはよくやってるし、薬の評判もいいし」

 

 エリシャが背を向けると、巻髪が肩で弾む。娘と同じく、雪に枯れない葉の色をして。

 

「丁度パイも出来上がる頃だし、御馳走してあげてもよくてよ」

 

 エリシャ宅の内部は屋敷と異なり暖炉は一箇所きり、居間は家族の団欒にも客間としても共通して使用するため間取りが広い。居間の中心には長方形の卓子と椅子が設置されており、屋内は薬草の青臭さと甘み混じりの香りに満ちている。
 天井からは束にされた薬草が吊るされていた。使い古しのカップは土が盛られて鉢となり、小さな花が窓際に並んでいる。不揃いな点は多々あれど、工夫を楽しみながら飾り付けられた親しみある内装だ。
 貴族として育った共通の過去がありながら、カリヴァルドとエリシャとは美的感覚が全く異なる。彼は統一性の感じられない室内装飾を生理的に受け付けず、雑多な内装が神経に障るのだ。しかし、この家の女主人はエリシャであるから、カリヴァルドが口出しするのは不躾とし、長卓の椅子を引いて大人しく腰掛けた。
 卓子の上、黄金の艶を帯びたパイが鎮座している。平たい生地から立ち上る湯気は、濃厚な蜜の気配を孕んで鼻腔に甘やかだ。
 三角形に切り分けた一片を皿へと移す。先細りした先端へナイフを宛てがうと表層の生地が音を立てて割れ、完熟の蜜を溢れさせた断面が熱に曇る。口腔に迎えれば、焼きたての熱と絡み合いながら舌の上で輪郭を崩し、甘くとろけた。

 

「大したことないわね。普通のパイだわ」

 

 エリシャは淡白な感想を述べたが瞳は輝き、二切れ目を皿に移している。パイを作った、いや正確にいうと作り直したのはカリヴァルドだ。エリシャが供したパイは生地が緩く、味見をするまでもなくカリヴァルドは調理場に立った。彼の隠された趣味は製菓作りであり、かつては厨房の片隅を借りて調理に耽り、完成品を妹に捧げていたのである。

 

「お母さん、美味しいっていいなよ。負けを認めなくちゃ」

 

 カリヴァルドの隣に座り、カナエが意地悪く母を追及する。

 

「ふん、負けたわ。貴方はなんでもできるわねぇ」

 

 木の卓子を挟み、パイから立ち上る蜜の香りを共有するエリシャとカリヴァルドは実質的な夫婦、内縁の妻といえた。その根拠こそがカナエであり、彼女はカリヴァルドとエリシャの血を引いている。
  
「カリヴァルドさんはリーベンさんちの大きなお屋敷で働く……従僕だっけね。リーベン様て、どんなお方? きっと、綺麗なドレスを着ているよね」

 

 カリヴァルドとエリシャの間では、彼はリーベン家の家僕で、公爵の指示に従ってエリシャの様子を見に来ているという嘘が頑なに守られている。彼がエリシャとカナエを妻子として認知しないことは、妊娠する前に了解されたことだ。
 認知はしないが、金銭的援助は続ける。それがカリヴァルドの提示した条件であり、エリシャはこれを承諾してカナエを産んだ。夫婦は愛情によって結ばれた仲ではなく、そもそもが夫婦でさえないのだが、種々の経緯が積み重なった結果、嘘を積み上げながらも、ひとまずの安定をみせている。エリシャと共謀してカナエに接する彼が、オルドブルレイア家を自らの家庭と定めることは今後も無かろう。
 カリヴァルドは家僕の領分を超えるとして、この家で飲食をしない決まりだ。カナエはカリヴァルドにパイを勧めたいのを堪えている様子で話を続ける。
 
「カリヴァルドさんはリーベン様を好きになったりしないの?」

 

 カリヴァルドとエリシャの脳裏に痩せた首と手をした気品ある老女の姿が共通して浮かぶが、色恋沙汰とは結びつきようもない。

 

「リーベン様は尊敬できる方だよ。もしも私に気の緩みがあれば、すぐに解雇されてしまうだろう」
「じゃあ、お母さんのことは?」
「我々は信頼し合える関係ではあるべきだ。しかし、それ以上であるべきでもない」
「良かった」

 

 カナエは相手が父とも知らずにカリヴァルドに懸想しているようで、時には明け透けなほど思慕を示す。血縁関係の無い設定を演じているだけで、実の娘だ。妹を陵辱したカリヴァルドではあるが、娘と関係することは有り得ない。身近にいる年長者への懸想は、未成熟な娘が一度はかかる熱病であろう。
 カリヴァルドがエリシャ宅の玄関に立つと、カナエが見送ると言って着いてくる。馬の側まできて、やや声を潜めた。屋内の母に聞かせたくないようだ。

 

「私の隠し事をひとつ教えるよ。もうカリヴァルドさんには知られているようだから」

 

 カナエは母に無断で薬を持ち出し、街に出ている。ある不幸な老婆が傷を負い、回復のために是非とも薬が欠かせないとわかったので秘密裏に斡旋していると自白した。

 

「以前から良くしてくれていたおばあさんなの。村の外に出てはいけないとわかっているけれど、今だけ、おばあさんが元気になるまでは通わせて」

 

 事情を話して味方に引き入れようというのだろう。カリヴァルドは穏やかに答える。
 
「よく打ち明けてくれたね。先に相談し、次に行動するという順序を守りさえすれば、カナエができることは格段に増える」

 

 使いを出そう、と続けたカリヴァルドにカナエは落胆した。

 

「私が行っちゃだめ?」
「薬の受け渡し、治療だけなら事足りるはずだ。他に心配事があるの?」
 
 カナエは頭上を見上げる。
 フリーレンが滅びの予兆であることは機密事項だ。氷の大樹が何であるかを民衆は知らず、巨影に怯えながらも見惚れる余裕が生じ、存在は日常に溶けかかっている。カナエにもフリーレンに対する恐れは感じられない。

 

「おばあさんの気持ちが暗いんだ。多分、あれのせい。確かに私がおばあさんのところへ行くべき理由は無いんだけど、私でなきゃいけない事って突き詰めると存在しないよね。やりたい気持ちがあるだけだよ」

 

 特殊な生態故に、カナエは外部との交流を制限されている。村で生まれ、日々の殆どを母と過ごし、母に言えない話となればカナエには吐き出し口が無い。時折に母子を訪ねるカリヴァルドは、彼女にとって数少ない外界との接点といえよう。

 

「では、おばあさんの問題はこれから私とカナエのふたりであたろう。医師の診断はあるの?」

 

 カリヴァルドは適宜理解を示す。咎めても萎縮させ、心を閉ざすだけだろう。彼はカナエから事情を聞き出し、次回の訪問までに間が空くだろうから、手紙を出すと約束した。 

 

「私、カリヴァルドさんのお手紙好きだよ。いつも素敵な香りがするもの。時々、可愛い花びらがはいっているのも嬉しい」
「そう? 薬と花をおばあさんに届けてあげるのも良いかもしれないね。君自身が街へ出るのは控えて、私からの便りを待っていて欲しい」

 

 わかった、とカナエは言う。

 

「私、牙がないもんね」

 

 自らの立場を弁えようとするとき、カナエはよくこの言葉を使う。周囲と異なる存在だと自覚しているのだ。名乗らない父と家庭に抑圧された子供。カリヴァルドは軽蔑した叔父と殆ど同じやり方でカナエに接している。
 二者が庭先で馬を撫でて引き続き語らうのを、エリシャが屋内から眺めていた。
 エリシャが少女から母となるまで、カリヴァルドの容姿は衰えがなく美しいまま。カナエが寿命を迎える頃でも彼の姿は変わるまい。
 村で暮らすまでは、エリシャもリーベンを通して華やかな場を眺め、豊かな暮らしを送ったのだ。見目麗しく三桁を生きる吸血種のなかにあっても同族の気を惹いてやまなかったあの男に、エリシャも簡単によろめいた。
 とはいえ、彼との関係を悔いず、喜ばしく感ぜられるのはカナエありきのことである。一児の母となったエリシャはカリヴァルドへの幻想を既に喪っており、彼が誰と交際しようと関心は無い。それよりも、エリシャがパイを味わいながらカリヴァルドがいつ出ていくかとじれったく感じていた理由は他にある。彼女は居間から寝室へと移り、両開きの箪笥を開く。収納された衣類の布地が奇妙に膨らんでおり、体を丸めた女が潜んでいた。

 

「……、ぁ」

 

 エリシャの背後より差す光を認めて、女が震える。遠目に馬を見つけたエリシャがカリヴァルドの目を誤魔化すべく、隠れるようにと咄嗟に箪笥へと押し込んだのだ。
 怯えて小動物のように縮こまる女の片腕を取って上体を起こす。小さな顎、前髪は頬に触れる長さ、長い黒髪が肩から背に流れた。伏せた濃い睫毛が邪魔で、エリシャは女の顎を掴んで双眸を凝視する。

 

「灰色の瞳……貴方、ヴィーケ・クディッチ?」

 

 カリヴァルドが珍しく身内の話を漏らした時、彼の母は灰色の双眸で、光を透かすと奥に淡い紫色が現れると話していた。稀有な色合いはエリシャと見つめ合う女の瞳に、確かに現れている。
 経緯は不明だが、数日続いた吹雪のなかを襤褸だけ纏って彷徨っていたのだとしたら、尋常ではない。
 女の乾燥にひび割れた唇が、ぎこちなくもカリヴァルド、と名をなぞり、エリシャは女の素性を確信して息を飲む。ヴィーケ・クディッチは生きていたのか、との言葉を呑み込んだのだ。
 オルドブルレイア家への訪問の後、カリヴァルドは約束通りカナエに手紙を認めた。カナエが喜ぶようにと香り付けされた紙を封じ、執事に預けて彼はペンを休めた。
 書斎机に向かっていた男の左手には新調された木製の指輪が嵌まっている。指輪に触れると妹の言葉が脳裏に過ぎる――貴方方は愛に弱り、判断を誤る。
 一理ある、と彼は考える。
 カリヴァルドがエリシャと関係したのは、リーベンとの微妙な力関係において、より優位となる為だ。
 リーベンはヒト種と同じだけの寿命しか持ち得ない養女を愛していたのか、娘がカリヴァルドへ向ける思慕が本物とわかると、エリシャが屋敷を出ることを許し、庶子を産むことさえ咎めなかった。全く外部の男と添い遂げるよりは、オルドブルレイアを観察しやすいという意味合いもあっただろう。
 リーベンとエリシャはカリヴァルドにとっての家族といえないが、カナエは違う。父親の義務を完全に放棄することが出来ず、中途半端な立ち位置で幼い少女を騙し続けている。アーベルが実父でありながら叔父としてカリヴァルドに接していた形と重なり、親子二世代に渡って皮肉なほどに似通う。
 内情はさておき、カリヴァルドがカナエを認知しないのは、ノウェルズを延命する日が来るかもしれないと予見していたことに尽きる。地位と権力があるからこそ、不祥事となり得る妹との姦通の余波に、カナエを巻き込むわけにはいかない。父親としての自分と兄としての自分を両天秤にかけ、カリヴァルドは後者を選んだのだ。逡巡し、熟考を重ね、とうに覚悟を決めたこと。よって、カナエに父と名乗る日は永遠に来ず、求めもしない。
 高く細い、笛に似た声が彼の耳朶を打つ。鷲だ。曇天を背に、一羽の鷲が旋回していた。カリヴァルドは猛禽用の手袋を嵌めて、家僕に窓を開け放つよう言いつける。
 着地点を見つけた鷲は急降下し、両足で彼の腕を捉えた。行儀よく翼を畳む獣を指先で掻いて宥め、カリヴァルドは鷲の脚に結ばれた小筒を開いて紙片を取り出す。

 

「ドリス。蜂熊という鳥を知っているかな」

 

 侍女のドリスが、いいえと首を振る。侵入する冷気が卓上の書類を煽るのを気にしたのだろう、彼女は窓を閉めた。グライブの白き街並みは、書斎室の幅広な窓を額として、美しき絵画と化す。

 

「この子の近縁種だよ」

 

 グライブの立法府は議会であり、白蜂から着想を得て政治体制の改革が行われてきた。
 蜂の巣は女王蜂の支配下で管理されていると思われがちだが、実態は異なる。
 女王蜂は巣板のなかで物理的に保護、隔離されていて意思決定の場に殆ど参加しない。意思決定の権利は個々の働き蜂に分散され、彼等に指導者は無い。一介の幼虫をいつ、どの機会に女王蜂として育てるかすらも働き蜂が決定する。誰ともなく種の全体で、適切な機会を悟るのだ。
 蜂と吸血種の脳は造りが全く違うが、集団をより善い方へと導く蜂の神秘的な力に吸血種は学び、白蜂との共存によって今日の姿がある。
 グライブが蜂を旗印とするのであれば、隣国ペルニスイユは熊蜂なる鷹の名を冠した君主制国家だ。熊蜂とは蜂を主食とする猛禽で、彼等に攻撃された蜂は反撃の意欲を喪うのだという。
 片腕の鷲に、カリヴァルドは囁く。

 

「ペルニスイユからの使節がグライブを訪問するとの報せだ。まるで、図ったような時期じゃないか」

 

 空の覇者との異名を持つ鷲が羽毛を膨らませ、よく通る声で応じた。カリヴァルドは猛禽の従順さを眼差しで褒め讃えながら、片手に摘んだ紙片を燭台の火に舐めさせる。投げ出されたのは銀盆の上、紙片は瞬く間に灰と変じた。

家族

10/銀世界          

 オリヴェール・ナイアの生家には、特別な眼差しを受け続けた絵画が飾られていた。それは白い街並みを描いた一枚で、土地の名をグライブという。

 

「グライブはどこにあるの?」

 

 問うたのは幼き日のオリヴェールである。母は大層この絵画を気に入っており、我が子の小さな手を握りながら語ってくれたものだ。

 

「常冬の森にひっそりと抱かれた土地よ。ひとりふたりでは、決して辿りつけない」

 

 国家の力と騎士団の守護を得ずして踏破は適わぬと、語る声さえ柔らかだった。
 ペルニスイユ使節団の一員として闇深き針葉樹の森へ踏み込んだオリヴェールは、あの日のおとぎ話を目の当たりにせんとしていた。
 広がっていたはずの青空は木々と雲とに侵食され、行く手は夜を疑う薄闇へと飲まれている。吹雪によって視界が閉ざされつつある中、総勢十五名で編成されたペルスイユ使節団は急ぎ馬を駆り、雪を蹴散らして走ることを余儀なくされた。彼等の背後に迫るのは、狼の群れである。
 後方を追ってくる三頭の他、騎馬に鞭をくれて急ぐ一同を両挟みにして、二頭の狼が使節団と並走している。
 枝が重みに耐えかね、積もった雪が前方で落下した。手綱を操り、迂回することでオリヴェールは速度を落とさず走り抜けたが、狼の囲い込みにより最後尾に続く随員が隊列から切り離される。
 狼が馬に飛びついた瞬間、護衛騎士が随員を庇って落馬。護衛の任を果たした勇敢な騎士は、雪の上に取り残された。すると、先頭を行く一騎が馬首を巡らせ、逆走を開始する。これが使節団の長、大使であった。

 

「ナイア様」

 

 騎士の静止が飛ぶも、構わずにオリヴェールは引き返す。負傷者の眼前へと降り立ち、護身の剣を抜いて獣の群れと敵対する。
 使節団の構成は正使一名、副使と随員が各三名。残りは過酷な道中にて彼等を守護する護衛騎士。要たるべき大使が脚を止めてしまえば、団員は先へも進めず後へも退けない。とはいえ、オリヴェールの義侠心に満ちた行動は一同の結束を強めるに充分であった。
 騎士等は互いに目配せを交すと、オリヴェールと負傷者の元へ向かう。人命救助の意志によって縦に連なり、栗色の鬣を散らして疾駆する彼等を、不意に巨大な影が追い越す。
 振り仰いだ先を飛ぶのは、鷲。両翼を拡げた猛禽はオリヴェールと狼の対峙する地点へと一直線に滑り降り、威嚇の鳴き声を高くあげるや、大きな爪で踊りかかった。大型獣でさえ一撃で仕留めるという鷲の鋭い爪が、狼の鼻先を捉えて血飛沫を散らす。
 第二撃に備えて鷲が旋回すると、狼は鼻の肉を削がれて息を荒げながらも、臆さずして低く構える。仲間達が彼の傍を過ぎて撤退を促すと、彼は群れの流れに加わり、遠ざかった。勝算は薄いとみて撤退したのだろう、狼は知能が高く生存戦略に長けている。
 オリヴェールは背後に庇っていた騎士を振り返り、怪我の具合を確認せんと膝を折る。

 

「無傷というわけにはいかなかったようですね。傷ましいことを」

 

 第三者の低い声が、冷気に澄み切る空気を伝って耳に届く。顔をあげた先、救援に駆けつけた仲間達の向こう側。

 

「お迎えにあがりました」

 

 まずは傷の手当てをと続けたのは、黒馬の鞍に跨った丈夫である。緩やかに黒馬が歩を進め、背後にいくつかの影を引き連れてきた。彼が片腕をあげると、鷲が引き寄せられて翼を畳む。
 いつの間にか、雪は止んでいた。窮地を逃れて熱が引いた為か。絶え間ない冷風と足場の悪さで使節団を苛んだ森が鎮まり、肌を刺す寒さが厳かなものに変化して感じられる。傷を受けた騎士に寄り添う姿勢のまま、 オリヴェールは影を凝視した。常冬の森にひっそりと生き、雪と氷の加護を受けし者。

 

「……吸血種」
「如何にも。ペルニスイユ国使節団の皆様方」

 

 聴かせるつもりのない呟きさえも、彼らの聴覚は拾うらしい。声を張ったふうでもないのに、森によく通る声が応じた。

 

「クディッチ公爵。この洞窟を抜けるのですか?」

 

 土を掻いて栗毛の馬が戸惑うのを、馬上のオリヴェールが代弁して隣の男に問う。

 

「はい。馬を宥めてあげてください」

 

 公爵に言われた通り、オリヴェールは馬の鬣を掻き、緊張を解さんと努めた。彼等の眼前には、洞窟が口を開けている。目線をあげると氷柱の鋭い切っ先が殺意の光を帯びて見えた。大きく発達しており、美しくもあるが不気味さを拭えない。

 

「氷塊が落下する危険性があります。傍を離れないように」

 

 ペルニスイユ使節団を迎えに出たのは、クディッチ公爵と彼の率いる兵士達であった。彼等は黒馬に跨り、一様に黒の外套に身を包んでいる。狼に襲われた馬は一時は混乱して逃げ出したのだが、森で彷徨う前に吸血種等が回収したらしい。黒馬の傍に混じり、吸血種等に誘導されるがまま、雪を踏み始めた。
 吸血種等は使節団の疲弊に配慮して、栗毛の馬から黒馬へとできる限りに荷物を移し、共に移動を続けている。
 先頭はクディッチ公爵。半歩先を進む彼の、幅広の肩を目端にオリヴェールも続き、洞窟の闇へと踏み込んだ。しばし全くと言っていいほどの闇に包まれて総毛立つも、馬の落着きがオリヴェールに伝わる。栗毛の従順なる馬は公爵の後を見失わずに導かれているらしい。
 どこから滲んでいるかも知れぬ蒼白い光が、足元の岩肌を浮き上がらせた。洞窟内部は天井が低い。暫く進むと圧迫感が失せ、天井が一気に遠ざかる。どうやら、開けた空洞に出たらしい。呼吸が幾らか楽になり、オリヴェールが顎を逸らすと、頭上を氷柱が埋めていた。水晶に似通う透明な剣先のすべてがオリヴェール達に差し向けられていて、壮麗なる氷の森を逆さに見晴らすようだ。仲間達によるものであろう、後方からもいくつかの感嘆が漏れ聞こえた。氷柱は青ざめた光を纏い、輝きを先端に滑らせている。
 
「この光はどこから?」

 

 公爵が片腕を横へ滑らせると、示し合わせたように周囲を輝かせていた光が変化した。青から橙へと、鮮やかなる色の漣が氷柱に打ち寄せ、一斉に染まりゆく様にオリヴェールは面食らう。

 

「仕掛けはあちらに御座います」

 

 鷲がひと鳴きして、公爵の肩から鞍へと飛び移る。先程の仕草はあくまで鳥への指示であったらしく、遅れて公爵の片手が光源を指す。
壁を見遣ると、内部に燭台を抱えた窪みが点々と続いている。

 

「行きがけに火を灯しておきました。凍礼祭の期間中には炎が青く変色します。これは少々、時期外れではありますが」

 

 燭台の連なりに従うと、天井が再び低く迫り、一本道へと収束していく。出口の白い穴を抜け出ると、両脇に巨大な氷塊が転がっていた。背後の狼より、入口の氷柱より、殺傷能力だけなら確実な巨大さだ。年中冷え、雪の溶けきらぬ地域だからこそであろう。暗所からの開放感に包まれると共に、再びの森を進んでいく。足元は石肌から雪へ、更に土へと柔らかさを増していった。
 四方には溶けきらぬ雪が残っていて、白い肌で弱々しい陽の力を受け取り、銀の粒子に分解して煌めいている。
 小枝の折れる音がした。目線の先で、白い毛並みに、染みひとつない見事な白鹿が姿を現す。
 角の生えているところを見るに雄であろうか。雪を掘り返すために雌でも角の生える種があると聞く。華奢な四肢をした鹿はオリヴェールを一瞥すると、俊敏な動きで駆け去った。
 この地に宿る白は、雪にしろ鹿にしろ、オリヴェールが自然界に見出すものより光をより蓄えて感じられる。
 木々が減るにつれ、前方には視界一面に続く白い壁が見えてきた。城壁のように頑丈な造りで、出入り口であろうアーチ状の門は両開きの状態だ。壁と扉は白く、両脇に控えた門番だけが黒の外套を着こんでいる。型は違えども、吸血種達は黒の衣装を基本としているらしい。
 一同が蹄鉄の音を緩やかに重ねてグライブの門を通過する間際、扉の左右に控えた門番が低頭で礼を示す。薄い影を経由して再び光の中へと踏み込むと、見えざる冷気のヴェールのようなものを潜り抜けた気がした。肌で感ずるところでは、雪の降る森よりも底冷えし、微風は乾いている。
 使節団としての使命を帯びていることを忘れはしないが、それを以てして抑えきれぬ高揚がオリヴェールの胸に湧く。グライブは本当にあったと指さし、亡き母へと笑いかけることが出来たなら。叶わないと知りながら、脳裏でだけ夢想する。
 絵画に重なる白で統一された街並み。続いていく石畳の緩い傾斜。地上は銀の彩をまぶされ、淡く輝いている。一面の白をして銀世界と呼ぶのであれば、まさに此処だ。
 圧し殺さんとした感動が、吐息を装って小さく漏れた。見知らぬ土地、真新しい感動に打ち震えていながら、不思議な郷愁がある。思い出と異なるのは、曇天を裂いて異様な何かがグライブの街並みへと伸びていることだ。
 オリヴェールの驚きと沈黙に、隣のクディッチ公爵が答える。

 

「曇天を根とし、滅びを象徴する氷の樹。我々はフリーレンと呼んでいます」

 

 遥かに遠き巨大な樹は、白く眩い。まるで――世界に走る亀裂のように。

銀世界
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