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6.5/兄妹 Sub story         

 突如として住み慣れた家をなくし、育て親たる老夫妻と引き離されたことを彼女は悲しむべきであっただろうか。
 森の奥深く、幹の隙間に隠れるように建てられた手狭な家屋にて幼き淫魔、ノウェルズは育った。物心ついたときから彼女は老夫妻との血縁関係のないことを了解していたが、きっかけの記憶は見つからない。いうなれば、はじまりから至極当然に部外者の認識をもって森に暮らしていたというわけだ。成長と共に、彼女はおとなの余所余所しさの内訳を理屈で理解した。
 ノウェルズは淫魔であること、淫魔は世に疎まれること。老夫妻には彼女を世話しなければならない何らかの理由があること。
 望まれずに生まれ落ちたという意識を持ったが、育て親を憎み、世を拗ねて生きるほど極端には走らなかった。高い洞察力により、彼女は自らを取り囲む複雑な状況に目を凝らし、現状把握に努めた。やむにやまれぬ事情ありきでノウェルズを世話する老夫妻が、淫魔の眠ったはずの深夜に囁き交わす。幼い子供を気遣う内容でもあり、ノウェルズを歓迎していないらしいことが透けて見えるのに、老夫妻は子供の手が寒さにすこしでもかじかむようなことがあれば、急いでこれを暖めて暖炉に一番近い位置に子供を据えるのだ。彼等はノウェルズを嫌っているのではない。長い時間のなかで愛し始めているからこそ、扱いに困っている。
 老夫妻が愛憎混じりでノウェルズを育てたことで、彼女のほうでも老夫妻を頼るべきか否か非常に曖昧な状態となり、子供は疲弊していた。この暮らしは安寧でもあるが停滞とも言え、内側から破れば老夫妻に何らかの累が及ぶであろうし、さりとて外部に期待も出来ない。しかし、夜の森に満る静謐を馬の嘶きと蹄とが切り裂いたかとおもうと、陰鬱だった日常は森の小屋と共に焼失。老夫妻とも生き別れた。
 悲しむべきであったかもしれないが、彼女が得たのは喪失ではなく安堵だ。引き取られた先は伯爵邸で、ノウェルズにも一室が与えられた。彼女の後見人は屋敷の当主ではない。吸血種の男だ。彼は年若く、頬の丸みをまだ残す輪郭ながらノウェルズの兄を自称して、カリヴァルドと名乗った。伯爵の慈悲を受けて屋敷に庇護されたのはカリヴァルドのみであったはずが、彼が頑として譲らなかったのでノウェルズも共に引き取られて存在を黙認されている形となったのである。
 カリヴァルドは森の家屋が焼け落ちる寸前に現れて、伯爵から焼死していいと見做されていたノウェルズを炎も恐れず抱えだし、危機から救出してくれた。恩義はあるが、感謝や感激は無い。なんといっても初対面に近いし、互いを詳しく知る前から兄妹として異様に馴れ馴れしいカリヴァルドの様子はノウェルズにとって癪に障る。子供なればすぐさま庇護を求めて懐くと思い込んでいるのだろう。
 以前の暮らしにおいて、老夫妻は森で身を縮めるように隠れ住み、ノウェルズが勝手に森の外を目指してみつかってしまえば老夫妻とて危うい、という緊迫感と心細さがあった。カリヴァルドにはそれがないのでノウェルズの足枷となることもなかろう。ここで気にかけるとすれば最悪の状況でも己の生死のみ。誰かを巻き込む心配は不要だという身軽さに彼女は暫し浴し、これを自由なのだと感じた。
 カリヴァルドはノウェルズの世話をするよう家僕にも言いつける権限を有し、伯爵邸に堂々と暮らしている。ノウェルズは邸内から出ることは出来ずとも、彼の庇護下において厨房や画廊、図書室で蔵書に触れること、楽器を見聞きして触れること、ペンを握って文字を書くことなどが可能となり、自分ひとりで不自由のある場合には幼い外見を悪用し、ものもわからないふりで家僕を頼って手伝わせた。
 彼女は無邪気で暢気な子供ではない。本来なら聡明さと呼べたはずの知力を小狡く発揮し、ねずみさながら伯爵邸を探り回って、家僕の上下関係、子供に対して隙の大きい者が誰かを見抜き、邸内の指揮系統を把握する。
 伯爵邸の者にとって、ノウェルズは従順でおとなしく内気な子供であったろう。小さな淫魔はこの世で誰からも存在を望まれた経験がない。それゆえ、未成熟な精神の内側では利己心と野心ばかりが育ち、強い防衛本能と攻撃性とをひた隠して過ごすようにと悪心が助言していた。誰かを信ずる必要はない、ここで上手く過ごして、期を図ればよい。如何なる機会を得て、どこへ向かうべきかを彼女は知らずにいた。こうして迷えることすらも、彼女が初めて得た意思の贅沢なのだ。
 伯爵邸では絶えず他者の出入りがあり、噂話が交わされ、来客を迎え、外界と通じる波と風の出入りがあり、子供は自分の頭上を素通りしていくおとなたちの喧噪に聞き耳をたてた。
 すると、どうやら市民権を誰もが有しており、何らかの職務や地位を与っているにも関わらず、どれほど下級のものであれノウェルズは身分なるものを所持できないらしい、ということに気付かされた。まだ具体的に市民権だの倫理だのといった複雑な、一定水準の教育を前提とした観念を得るところまでは到達していなかったが、みんなに当然あるものを自分は持たないどころか、将来も持てないらしいという不遇さを悟ることは出来たのだ。伯爵邸の囲いを抜け出しさえすれば、聞きかじった知識にある職種のなんらかに就けると夢想したが、そのような権利は淫魔には認められない。彼女の頭髪は銀色をして過剰に目立ち、遠くからも輝く。それが染料を受け付けないので布を巻いて隠すしかない。髪をどうにかしたとて、更に誤魔化しの効かない深紅の双眸を備えているのだ。このように派手な色は吸血種の一般的社会には存在せず、異常な目立ち方をする。伯爵邸内でもノウェルズの色を気味悪く思う者は存在した。この不自由な身で、誰との縁故もなく生き延びていくことは難しかろう。強かさと、それ故に生じた煩悶で気が塞がって憂鬱に窓を曇らせていると、カリヴァルドだけがノウェルズの溜息に気付く。
 
「あまり勝手をするなよ。お前は実に小狡いやつだからな」
 
 知った風な忠告を与え、馴れ馴れしくノウェルズの頭に片手をおいて髪を撫でた。彼は続ける。

 

「俺に似ているよ」

 

 小狡さが自分に似て愛着が増す、見上げた彼の表情はそう語っている。ノウェルズは鼻白んだ。自分との共通点を必死に探し出して、それみたことか、やはり我々は兄妹だと喜びたくて仕方がないとみえる。彼はノウェルズではなく妹という概念と幻想とを見詰めているのだ。カリヴァルドの眼差しにこもる期待めいた温度は押しつけがましい生々しさで、ノウェルズは苦い思いがした。
 新生活が二週間も過ぎた頃、カリヴァルドが慰めと詫びを言い置いて留守にすると、子供は高熱をだして寝込んでしまった。傍にいれば厭わしいのに、離れれば心細い。伯爵邸でノウェルズの心身や衛生管理に心を砕き、配慮している者はカリヴァルドだけなのだ。己の孤立と存在価値の低さを悲しく把握しているが故に、ノウェルズは彼が自らの生命線だと理解していた。カリヴァルドが手配し、留守を任せた女中がノウェルズの傍についたが、子供の苦しみは癒えず、熱も下がらず、しらぬ間に意識を無くして、再び瞼を開いたのは夜更けのこと。
 薄暗い室内には燭台がひとつ灯されていて、枕元の陰影を浮き上がらせている。申し訳なさそうに出て行くのであれば一番苦しい時に駆けつけて欲しいが、あの男にそんなことができるはずはない、とノウェルズは思った。彼には自分の立場があって、地位があって、日々忙しい。所在なきノウェルズとは違うのだ。
 頭のなかで恨み言を述べるということは、彼に幾分かの期待を寄せていて、縋っているだけ。己のうちにわきあがる矛盾に苦しみながら、ノウェルズは小さな拳で掛布を握りしめ、額に汗を流し、蒸れた寝具の中で寝返りを打つ。傍らで衣擦れの音がして、ノウェルズの額を湿った布が冷やした。意識が朦朧としていたので孤独と錯覚していたが、寝台に椅子を寄せて、カリヴァルドが子供の様子をのぞき込んでいる。
 どうして、と思ったが、彼の事情に気を配るための言葉を発するには至らない。子供の唇はただ痙攣し、ノウェルズ自身に自覚はなくとも生死の境を彷徨って、ようやく容態が安定したところなのだ。
 カリヴァルドは知らせをうけて急いで戻り、どうにか医師を呼びつけて、それでも淫魔の対処法は吸血種のそれと異なるであろうし、後は運に任せるほかないと申し渡されていたことで、ノウェルズの意識が回復したことの重大さをカリヴァルドだけが理解していた。

 

「ねえ、今は沢山お眠り。そうすれば朝には回復すると医者が教えてくれたのだよ。俺がここで、お前を見守っているから……それとも他に必要なものがある?」

 

 慎重に、子供の幽かな吐息と、弱っていく心音を聞き取ろうとするかのようにカリヴァルドは身を屈めた。住み慣れた家を無くし、養父母を喪い、大幅に環境が変わった。子供の衰弱は慣れぬ環境に必死で適応しようと気を張り続けた結果でもあり、そのことに気が回らなかったとしてカリヴァルドは保護者としての心痛を感じており、彼の眼差しには後悔と労りとが宿っている。

 

 「水を飲むか?」

 

 尋ねて、ノウェルズの身を起こすか迷ったカリヴァルドの腕が彷徨い、小さな体の背に添える。子供は自らを支えようとした男の腕を掴み返し、熱に干上がり、ひび割れた唇を震わせた。

 

 「私達、家族じゃない……」
 
 子供を慰撫せんとしていたカリヴァルドの動きが停止する。冷えるカリヴァルドに反比例してノウェルズは高揚していた。手応えがあったのだ。彼女とは全く無関係の場所で作り上げられ、カリヴァルドが夢中になっているらしき家族という幻想に刃を突き立ててやった、彼を傷つけてやった、という実感が。
 
「私たちは他人。会ったばかりで家族になるなら、誰でも貴方の家族になれるよ」
 
 皮肉った笑みを小さな唇の上に浮かべてカリヴァルドを見上げたとき、ノウェルズは予想外の衝撃を受けた。突然に血の気が引いて、自らが汗で全身を湿らせた卑しくも生暖かな肉塊になったと感じ、高熱すらも一瞬は忘れた。
 他者を傷つけて悦に入ることの昏い喜び。まだそうとは理解されておらず、形も曖昧な道徳心が、卑劣だと己を糾弾し、魂と理性とに警告したのである。彼女は幼いが故に他者に対して残虐に振舞ったことも、意図的に誰かの精神を滅多刺しにしたことも初めてだ。とはいえ、発した言葉は撤回したとて消失しない。彼女が初めて振るった刃はあまりに正確すぎた。子供の傍らに座るカリヴァルドは青ざめ、片手が震えている。
 所詮は自分とそう違わない未熟な、そのくせおとなのふりをした子供ではないかとノウェルズはカリヴァルドの脆弱さを頭のなかで批難した。そうして自己保身に走らずにいられない。彼女はカリヴァルドが流した見えざる出血と傷の深さを気取っていて、ちいさな胸は精神的な恐れから早鐘のように脈打ち、咎人のごとく目は泳いでいる。切り裂いたのは他ならぬ自らでありながら、被害者の傷を直視できないかのように。

 

 「確かに、そうだ」

 

 カリヴァルドは吐息し、眉を潜め、重々しく同意した。

 

 「俺は家族に拘ってしまう。どうしても」

 

 カリヴァルドは続けた。裏切られたと知った直後でも、まだ守れる家族がひとりだけ残っていた事に安堵したのだと。血縁関係がありさえすれば誰でも良く、ノウェルズを弱々しい妹として守ってやる、そういう自分に浸って精神を保っていた節があると認めた。
 
「でも、今は違う」

 

 カリヴァルドは体温を無くした両手で、怖々とノウェルズの小さな片手を包む。幼き淫魔もまた色を無くして青ざめていた。出会ったときは炎に照らされるなかで鮮烈に輝き、紅玉と紫水晶にも劣らぬ光を双眸に湛えたはずのふたりの子供たちは、薄闇のなかでおぼろな瞳を見分けようと凝視しあう。
 
 「今は、お前を知りたいと思っているよ、ノウェルズ。俺がお前に兄だと認めて貰えなくても構わない。だけど、お前と血の繋がりのあることを嬉しく思う自分というものを払拭できずにいる……理屈から言えば他人といえる距離だ。わかっている。どうしてか、俺は」

 

 彼はそこで言葉を止めた。ノウェルズは肩で息をしながらも、上下の張り付きそうな唇を動かして尋ねる。

 

 「あなたにとって、家族ってなに……?」

 

 カリヴァルドはノウェルズから目を逸らしはしなかったが、子供をみつめたまま暫く硬直した後、視線を外さずに首を左右に振る。わからないのだ、彼にも。答えなど持ち合わせていない。
 カリヴァルドを頼るべき存在ではなく、利用価値のある相手として見做していたのはノウェルズなのだから、彼が予想以上に頼りない返答を寄越したところで失望のしようもない。沈黙を共有しているのに、青ざめるほど傷つけられたのに、カリヴァルドに退室する様子はなく、ノウェルズを見つめる熱心さにも変わりが無い。
 伯爵邸に来た当初と比較して、ノウェルズが彼への嫌悪を強めたのに対し、彼のほうでは傲岸不遜であった態度は次第に軟化し、ノウェルズの様子を伺い、人柄を探って見える。無礼に振る舞ったのは彼が先だが、考えを改めたのかもしれない。そんなことにも気付かないほど、ノウェルズのほうがより傲慢になっていたのだ。
 カリヴァルドと話すうちに子供の呼吸の荒さは徐々に落ち着いてきていた。変わらず熱の倦怠感は強いが、嵐が知らぬ間に去ったかの如く、不安が勝手に和らいでいる。
 
 「お前のつらいときに、こんなふうに話し込むべきではなかったね。続きは回復してからにしよう、今は横におなり」

 ノウェルズが呆然としていると、カリヴァルドが子供を再び寝かしつけようとする。彼女はこれに弱い力で抗った。腕に力を込めて筋肉に指示したとき、彼を突き飛ばすか迷った膂力は、けれどもすぐに脱力する。炎に包まれ、焼死しかけた夜にカリヴァルドが力強くノウェルズを抱き上げたときの腕や胸の感触が蘇ったのだ。
 ノウェルズが手酷く傷つけてやろうとした悪意を彼がわからぬはずもない。それでも尚、慈悲を与えんと寄り添ってくれるこの者は、一体いつまで、どこまでノウェルズにとって他人でしかないのか?
 事実、彼が傍にいてくれてノウェルズの苦しみは和らぎ、激情をぶつけるほどの気力が復活したではないか。気付いてしまえば、子供は意地の張りどころを喪い、身を起こせなくなった。カリヴァルドの片腕に弱々しく自重を任せるほかない状態で、彼女は呻く。

 

「一緒に寝て」

 

 添い寝の要望を受け入れたカリヴァルドが弱った子供を抱えて寝台に横たわり、ノウェルズを抱き寄せる。彼への嫌悪感は遠ざかり、霧散したかのように思い出せず、肌のうえに蘇りもしない。柔らかい体温と呼吸音に包まれて、緩やかに忍び寄る眠りへと引きずり込まれていく。御兄様、御兄様と繰り返し彼を呼び慕うことは、単にノウェルズが生きていくために必要な作業で、彼は利用すべき相手なのだろうか。一人で生きていくことが、身勝手であることが、誰をも信頼しないことが自由なのだろうか。子供の目元は濡れていた。慚愧の念に堪えず、我が身を恥じた自責の涙である。
 子供は夜明けに眠りから覚め、男の腕のなかで瞬く。長い睫毛が彼のシャツを掠って乾いた音をたてるほどに近い距離で、殆ど胸に頭を埋めるようにして一夜を過ごしたらしい。屋内といえど早朝は冷え切っており、寝具の内側にのみに体温が宿って心地が良い。
 体中を蝕んでいた痛みと苦しみは消え去り、ノウェルズの呼吸は安定していた。深く寝入っている男の顔を無断でのぞき込むと、顔色からして色濃い疲弊が見てとれる。誰のための心労か明白であり、ノウェルズはこの日を境に彼を所詮は子供と侮ることをやめ、態度を改めた。
 カリヴァルドは存在を容易に外界と接続され、ノウェルズよりもずっと自由に行き来が可能である。彼はノウェルズより世を知り、ものをしり、彼女を心身ともに庇護してくれる情に厚い存在で、それから大事な味方、そういう見なし方はいつでも可能だったのだ。
 淫魔の不遇さに心を痛め、伯爵邸から出ることのできないノウェルズが教育機関で学び、公的な身分を得るために外部へ働きかけんと奮闘してくれる者が彼の他にあろうか。周囲の誰よりノウェルズにとって模範となるべき年長者たれ、と苦心する彼を率先して認め、出会った時に命を救われた感謝を重く、深く受け止める道もある。このように捉え直すと、ノウェルズは彼の姿にますます深い敬愛と信頼を寄せるようになり、最早一欠片の侮りも存在しなかった。彼女は永遠に欠けない敬意を意識して、常に御兄様と呼び慕う。故に、兄が大切にする家族なる概念を蔑ろにしようはずもない。
 あなたにとって家族ってなに?
 幼き時分の問いは兄を著しく傷つけたが、記憶のなかで困り果てていた少年ではなく、成長した自らが答えてやってもよかろう。家族とはノウェルズにとって誇りだ。どこで生きて誰と会い、ノウェルズが何を成してもカリヴァルドの妹だと誰かがみなし、噂が彼へと伝わる。恥じぬ自分を築かんと邁進し、名誉を風に乗せて彼に届ける喜びをノウェルズは知っている。彼によって淫魔ながらに地位を得て、社会を生きるに至ったのだから。

兄妹

8.5/青の幸い Sub story         

 大通りの建物は一階に空間を設け、石柱で支えられた通路が続く。積雪によって市街地を馬車がまともに走れない日には、この歩行者用の通路が唯一の交通手段として機能するのだ。
 グライブにおいては全ての外壁が純白で統一され、潔癖な景観を保つ。車道の両端に続く石柱の通路を行き交う通行者、彼等の翻す黒の外套、アーチ状の高い天井に靴音が反響する。日中の弱い影を湛えた廊下のうち、窓や扉から祝いの色が透けていた。立ち並ぶ店舗が内装の基調色を青に変更しているのだ。
 凍礼祭、曇天より雹の注ぐ二週間をグライブではこう呼ぶ。寒さが僅かに和らぐ季節、住民は純白の街に祝いの青を添えて、静かに祝う。
 この日、ルックス・ロードヒルデは大通りをひとりでぶらつく予定でいたが、声をかけられたことでふたり連れとなった。彼の隣を歩くのは勤務先のグレンツェ語研究所における直接の上司、ノウェルズ・クディッチ紫書官。
 背丈が百七十を超えないルックスより更に紫書官の目線は低く、職場で見るより小柄だ。背に流した頭髪と同じ、銀色をした睫毛を正面に向け、横顔を晒したまま彼女は口を開く。

「上司と歩くのでは、気が休まらないでしょう。ご迷惑かとも考えたが、休みに出くわしたのを幸いと呼び止めました。我々の足並みは揃っているとは言い難い、お互いをすこし知ることが出来ればと」

 そこで、紫書官はルックスを見上げた。話している時に目を見て、済んだ時こそ逸らすものではなかろうか。或いは、返答を急かしているのか。ルックスは慇懃無礼に感じ、彼女とまともに見つめ合う。視線を合わせるというのは一種、対等を意味する。

 

「労働時間外なのに上司気取りですか。しかも凍礼祭の時期に……クディッチ紫書官。本当に互いを知り合いたいとお考えなら、回りくどい話が嫌いだと最初に知ってください。俺が研究所に馴染んでなくて、貴女の助手として役に立てていないから声をかけたんですか」

 

 彼等は出会ってから日が浅い。中央図書館配属の司書であったルックス・ロートヒルデは、グレンツェ語研究所へ異動することとなった。急遽、文官の最高にしてグレンツェ語研究の第一人者、クディッチ紫書官の助手に任ぜられたのだ。
 栄転と囃し立てた同僚たちにルックスは溜息で応じた。内訳はこうだ、グレンツェ語研究所に欠員が出たので、穴埋めのために選出されただけ。本籍は中央図書館にあるまま、業務内容が丸ごと変更となった。外部の事情からルックスは望んだ司書という職務から引き剥がされて、突然に専門外の仕事をやらされているというのが現状だ。
 彼が従うのは紫書官の腕章に対して、それから異動を告げた元勤務先である中央図書館の上司の顔を立てるためであった。

「貴方は優秀だ。少なくとも研究所の方では貴方を必要としていることを知って欲しい」

 

 上司としてルックスの不遜を叱らず、知人のような穏やかさで紫書官は答えた。些かの動揺もない話しぶりに、ルックスは気を削がれる。
 胸の内を推察することは不可能ではあるが、職場での紫書官が初対面からルックスに親しみを微塵も示さなかったことは事実である。
 研究所内で見たクディッチ紫書官は明らかにルックスとの会話を最小限に留めていた。前任者のヤナ・バッハムが優秀だったとは伝え聞いているし、才媛を惜しんだのかもしれない。だが、ルックスがそこまで紫書官に思い致す筋合いがあろうか。

 

「ヤナ・バッハム先生は言語学の専門家でした。私は研究職ではありません」
「勿論です。貴方にバッハムと同じ役割は求めません」
「しかし、バッハム先生は貴女の助手をしていた」
「先生の主な役割は音声学の研究で、彼女と同じ仕事は誰にもできません。研究の傍ら、時間を捻出し、周囲に気を配り、まるで私の助手のように振舞っていただけ。ロートヒルデ司書の明確な前任者はいません」

 

 ルックスは言葉をなくした。少し呆然としてから、本音を口にしようと決める。

 

「御無礼を承知でお尋ねします。私の赴任当時から、紫書官は交流を拒否しておられたようにお見受け致しましたが、全て勘違いでしょうか」

 

 紫書官は交流嫌いで親しみ薄く、指示は下すが、それ以外では近づくことさえ無い。彼女の顔さえ、近距離で見たのは今日が初めてだ。

 

「いいえ、事実です。フリーレンの騒ぎから激務に追われ、余裕を無くしておりました。私の不甲斐なさの為に貴方には不快な思いをさせたことでしょう」
「は……いや、フリーレン……」

 

 言葉に詰まる。フリーレンとは今も彼等の頭上、曇天を裂いて君臨する巨大な樹で、絡み合う枝の先で地上を指し、根は雲と一体化して明瞭ではない。逆さの大樹、もしくは氷の樹と呼ぶに相応しい姿だが、植物でないことは明らか。さりとて正体が何であるかは誰も知らないし、氷の樹こそはルックスが異動することになった遠因である。彼はフリーレンを取り巻く状況の緊急性と人事異動の煽りを受けたのだ。

 

「 バッハム先生は解明を恐れたと聞きます。紫書官でも、フリーレンに対して恐怖を感じますか?」
「いや、私はあまり感じません。バッハム先生はグレンツェ語研究所の設立以来より献身的に尽くしてこられた方です、彼女は別所にてご自身の研究を継続しておられる」

 

 紫書官の極端な素気なさが激務に忙殺されたが故と説明されると、認める気持ちが起こる。フリーレンを解明出来るのはグレンツェ語のみという話だから、専門家たるクディッチ紫書官の肩に乗る責任は計り知れない。紫書官が堪えた姿を晒さないからこそ、想像力を働かせるべきだったかとルックスは悔いた。

 

「先程までの無礼をお許しください、紫書官。助手であればこそ、俺……じゃない、私が貴女の疲弊に気付くべきでした」

 

 歩み寄りを見せている姿を跳ね除ける理由は無いし、紫書官は研究所を去ったバッハムの名誉を守っているようだ。ルックスが研究所勤務となってからも、中央図書館で世話になった顔ぶれを忘れていないことと同じく。

 

「フリーレンには誰もが戸惑う。お互いを知らないと認めあい、認識を共有出来たことを嬉しく思います。ルックス・ロートヒルデ司書、何卒宜しくお願い申し上げます」

 

 彼女は一度も笑みを見せない。表情は頑なな印象を与えるばかりだが、革手袋に包まれた手が差し出された。握りこんで握手を交わすと、骨の脆さが伝わる小ささで、ルックスはすぐに手を離す。

 

「お詫びに何か暖かいものでも奢らせてください」

 

 ルックスの提案に、紫書官は首を左右に振った。

 

「じゃ、煙草はどうですか? 紫書官はお独りで吸っているでしょう。消耗品ならあり過ぎて困ることはないはずです」

 

 不意に、紫書官の頭に氷の礫が直撃した。雹である。立て続けに氷が注ぐも、ルックスには被弾しない。グライブの吸血種に雹は当たらないのだ。彼の金髪に触れる直前に、雹が自ら砕け散る。煌めく飛沫が睫毛を掠って煩わしいだけ、傷を負うはずもない。だのに、紫書官には硬い氷が遠慮なしの力加減でぶつかる。
 慌てて紫書官を抱き寄せると、雹はルックスの頭上で砕け、肩に飛沫が散る。彼は銀髪の女を庇いながら石柱の通路へと避難した。天井は高く、閉塞感は無い。
 背筋を伸ばしたルックスと同じく、紫書官も外套に乗った雹の飛沫を払い落としていた。仕草に従い、彼女の肩や背中で長髪が光を滑らせる。
 紫書官は銀髪なのだ。どうして雹が彼女に当たるか尋ねかけたルックスは合点がいき、問いを飲み込む。
 吸血種の当然が通じない現場を目撃することで、目の前の生き物が淫魔と呼ばれ、吸血種には発現しない紅玉の双眸と銀髪を備えた亜種であることを、彼は意識した。

 

「助かりました。これがあるから、外出は午前中に済ませるべきだと考えていたのですが」

 

 気温は午後二時頃に上昇するため、雹が降りやすくなるのだ。

 

「全然止みそうにないですね。俺、馬車を捕まえるまで付き合います」
「もう降り始めてしまった。お言葉に甘えて煙草屋までご同行願えますか、貴方に急ぎの用が無ければ」

 

 紫書官からの気遣いにルックスは短く答える。

 

「じっとして休みを過ごしたくなくて、それだけです」

 

 これ以上、街をぶらついている訳を深堀りされたくないばかりに、紫書官の目線が店の硝子窓に向いていたのを捉え、中を見てみるかとルックスは誘う。

 

「この青色は? あちこちの店で見かける」

 

 世間知らずぶりにルックスは驚いたが、顔には出さずに置いた。淫魔として雹が直撃するならば、移動は専ら馬車であろうし、通りを歩くのは危険だ。大きな礫が当たれば額が割れる。
 ルックスは店内の品々について説明した。一般には、摘むと指が透けるほど薄い丸型の飴が売られ、蜂の巣板を模した六角形の置物が定番として配置される。これを飾って、店先や屋内へと入り込んだ白蜂が運良く留まれば喜ばれるのだ。ルックスは大通りに青の差し色が増えるわけを紫書官に説明した。

 

「公爵家が各自に白、黒、金を家柄の印とし、屋敷の内装に取り入れて統一していたことと、凍礼祭に見られる炎が変色する現象とを掛け合わせて、この青を庶民が取り込んだことが習慣の始まりだそうです」

 

 話しながら思い出すが、紫書官こそはまさしくクディッチ公爵家の令嬢だったはずだ。俗習の元となった名家の系譜が目の前にいるとは奇妙な感覚である。貴種とあらば、庶民の祭りに馴染みが薄くて当然だろう。
子供の高い声が響く。概して住民は黒の外套を着るのだが、子供たちは白い外套にストールを靡かせて駆け回る。
 凍礼祭の炎の変色や雹の神秘は全て凍気と呼ばれる、冷気のなかでも特に鋭いものの働きだ。グライブに遍満し、不可視のヴェールが如く、雲よりも低い位置で上空を覆っているという。
 凍気は神秘を起こすが自然災害をも齎す。生まれて日の浅い幼体はこうした危険を知るまい。凍気に関連付けた純白のストールを靡かせて子供が回転すると、布地に砕けた雹の飛沫が乗り、煌めきを纏って通行者に微笑みを齎す。真昼に星を従えて笑い声をたてる姿は、凍気の危険を知る成体さえ無邪気な心持ちに還してくれる。

 

「ロートヒルデ司書も、幼体の頃にはああしてストールを靡かせたのですか」
「聞かないでください」

 

やったに決まっている。ルックスが俗習を語ると、紫書官は凍礼祭とは農耕生育への感謝と時節の祝いを意味すると古義を語った。祭祀が格式高くなるほど礼式や技術の継承は困難となり、伝統を踏襲する貴族と簡略化していく民とで祭りの内容は乖離していく。
 ルックスも子爵家の次男で貴族といえるが、母が伝統に拘る気質ではなく、長兄は型破り、家長たる父が妻子に押し負ける形で、ルックスが物事ついた頃には庶民流の楽しみ方が家庭に取り込まれていた。
 目的地たる店は整然とした棚に囲まれた美しい内装で、どこを見ても飴色の木目が輝いており、凍礼祭の青は見当たらない。訳知り顔の店主が顧客から煙草入れを受け取り、新しいものを詰め替えて紫書官に渡す。更に紙袋を彼女が受け取る傍らでルックスは支払いを申し出たが、これは断られた。

 

「お客様方は運がよろしゅう御座います」

 店主がルックスに微笑みかける。彼の視線を追うと、綿毛のような姿をした白蜂が迷い込んでいた。扉は閉ざされているため、入店時に紛れたのだろう。

 

「ほう、陶器を置いていたのか。気づかなかった」

 

 紫書官が言う。三者は静かな店内で、カウンターに置かれた六角形の陶器に白蜂が留まるものかと暫く注視していたが、綿毛は陳列棚に置かれた缶に乗り、羽を休めた。この店は紅茶缶も取り扱っているようだ。

 

「外へ逃がしてあげましょう」
「店主、俺達は店を出ます。白蜂は任せてください」

 

 ルックスが扉を開けると、吹き付ける冷気をむしろ喜ぶように白蜂が扉をくぐっていく。白い襟巻で輪郭を丸く太らせた彼らは賓なのだ。目線の高さを泳ぐ蜂を、ルックスは初めて間近に見た。
 のんびりと遠ざかる白蜂はやがて極小の点となり、視界から消失する。幼年期、陶器の飾りに彼らが留まることを夢に見たことがルックスには懐かしい。
 今朝方も、凍礼祭は既に終わりと知りながら、長く仕舞こまれていた陶器を掘り出して私室の机に置いた。
 六角形が下段によっつ、上段にみっつ並んだ置き物を二個。自分のために買い与えられたものと、父より引き継いだものとを並べて。
 凍礼祭の習慣を目にし、説明する道すがら、去来する郷愁をルックスは度々息を詰めてやり過ごしてきた。紫書官も気づいていたのだろう。煙草屋の屋根の下、雹を避けて寄り添いながら、静かな声でルックスを呼ぶ。

 

「お父様の訃報を聞いております。大変な時期にも関わらず研究所に留めてしまい、ご実家に貴方を返すことが出来なかった」

 

 ルックスは瞠目する。実父の訃報は僅か数日前、葬儀を兄と母とに任せて、ルックスは仕事を優先した。紫書官が声をかけてきたのは、同情的になったからなのか。感情の動きを悟らせたくないばかりに、彼は雹の注ぐ曇天を見上げる。

 

「自分で選んだことです。今は、大変な時期なので」

 

 空に顕現せしフリーレンは、誰の責任でもない。責めるべき場所はまだ何処にもない。なればこそ、混乱の下では全員が支え合わねばならない。
 今日は、ようやく得た休日で午前中に母と兄とに会いに行った。彼等はルックスを気遣うばかりで、涙の一雫たりとも拭わせてはくれなかったのだ。
紫書官の視線が頬に痛く、どう振りほどいたものかをルックスは悩む。

 

「愛された者には果たすべき義務があって、俺は父の教えを守るつもりでいます。それは、葬儀に出なかったからといって壊れるものじゃない」

 

 生き様は誠実に、仕事では信頼されろとルックスは父から教わったのだ。母と兄も、これを察しているからルックスに悲しみではなく優しさをわけたのだろう。自らの判断をこそ悔いてはいないが、父の最期の姿を目にすることが無かったことは、日を追う事に惜しまれる。

 

「クディッチ紫書官。気にかけてくださって、ありがとうございます」

 

 この小さな散歩によって、冷ややかだったはずの紫書官の印象は随分と変化した。

 

「愛された者には……なるほど」

 

 小さく頷き、紫書官は心当たりを覗かせる。ルックスは照れ隠しを兼ねて尋ねた。親か、きょうだいかと。
 一言断ってから紫書官が燐寸を擦る。煙草を軽く吸って先端に火を馴染ませてから、彼女は紫煙を吐き出した。

 

「私に煙草を教えてくれたのは、貴方の兄君です。かなり昔に、世話になった」

 

 グレンツェ語研究所への赴任を伝えた際、ルックスの兄、カッツェ・ロートヒルデ子爵は何ら言及しなかった。だから、兄が親しんできたクディッチと上司とが、ルックスの中で重ならずにきたのである。

 

「何やってんだ、あいつ。……公爵令嬢に煙草なんか教えて」

 

 思わず吐息すると、自然と苦笑の形になる。

 

「私の兄が……貴方の兄君と知己の間柄なのです」

 

 語る紫書官が睫毛を伏せた。青ざめた肌のうち、煙草を咥えた口元の隙間に覗く粘膜が薔薇の色をしている。青みと赤みが骨のような白さに希釈され、彼女は透ける色で構成されていた。沈黙が横たわっているから視界に集中してしまうのか。情報量の多い紫書官の容姿、睫毛の作る影や鼻梁、人形のように仕上げられた小さな顎。思考を空にしていると魂までも傾きそうだ。それほどに紫書官の造形は稀有で、魅入られかけたルックスは彼女から視線を剥がす。生き物に対し、人形とは何事か。
 自己を叱咤したものの、隣の女に目を凝らすほど何か独自の世界観を顕にし、見た側を引き込む、そうした引力を持つとルックスは感じた。
 おや、と彼女が一言を漏らす。紫書官の指に挟まれた煙草が赤から青に変色していた。炎の種類を選ばないとはいえ、煙草に青が宿るとは珍しい。

 

「紫書官はよっぽどの強運ですね。白蜂も貴女に惹かれてきたのだと思いますよ」
「強運か」

 

 紫書官は首筋を抑えた。外套の襟に隠れて皮膚は見えない。その意味するところ、布地の下に秘された首に二箇所の小さな吸血痕があるなどと、ルックスが想像出来るはずもなかった。彼はただ、自分と同じようにノウェルズ・クディッチ紫書官にも家族に愛された幼年期があるのではという期待を寄せて、笑いかける。

 

「こういう時、習わしでは何と言うかご存知ですか?」

 

 変色した炎を手燭に移し、親しい者に手渡すというまじないがあるのだ。紫書官が煙草を持つ手を軽く掲げ、声が喉を渡る前に返答は予期された。二者の声が揃う。

 

『青の幸がありますように』
 

青の幸い
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